自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

②高校時代

 

 

 

 

 

 

 

 


生い立ち① 中学時代より

 


「平凡でも、自分に「絶対的な」価値を見出せる大人になりたい。私はその思い一心に、ナンバーワンではなくオンリーワンな自分になるべく、美術科の高校に進学した。」

 

 

 

 


はずだった。

 

 

 

 


②高校時代

 

 

 

高校時代、私はこれ以上傷つきたくなかった。中学時代の友達との不和、学生という身分でする恋愛の徒労な感じ、漠然とだが強く社会に出ることを恐ろしく思う気持ち、逃げるようにレールを外れることしかできなかった不健康な自分への自己嫌悪、そういった自己評価の低さ、自信のなさ、学校への不信感…

 


私は、これらの鬱々とした気持ちは、思春期特有のもので、20代になる頃には自然と消え失せるものだと思い込んでいた。

 


だから高校生活は、ただ問題を起こすことなく、不登校にもならず、成績不振に陥ったりせず、どれだけ苦しくても不安でも10代とはそういうものだと言い聞かせて学校へ行き、あと3年間、耐え抜けば、きっと普通の大人になれる、そんな気持ちで、これ以上病んでしまわないように、できるだけ傷つかないようにと非積極的に、本来持っていた明るくて溌剌とした面というものをほとんど押し殺し、気分が最悪な日もゾンビのようにして通った。

 

 

 

私と絵

 

 

 

前回から(①中学時代より)重ね重ねの表現になるが、私はそうやって、社会の複雑さ、かつ社会をどうすることもできない自分の非力さ、そんな社会に出ることの恐ろしさ、私をさらに自己嫌悪に陥らせるような面倒な人間付き合い…、私を不安にさせるあらゆる雑音に耳を塞ぐかのようにして、絵を描くことに没頭した。

 


高校で絵を描くことを学び、絵を描くことだけに没頭できた時間は、私の救いだった。毎日絵を描くという、目にみえる研鑽の行為は、私に安心感をもたらした。一進一退はあったものの、日々描いた絵は、その時々の自分の成果物として、自分の存在価値を見失いかけていた私には欠かせないものになった。それに、絵が描けるという個性は、きっと将来の役にたつという期待が、社会に出ることを恐れていた私を励ました。

 


しかし、絵を描くことが、ただ純粋に楽しくて安心できる救いの行為であり続けたのは、大学受験が始まる前までだった。

 

 

 

 


落胆

 

 

 

高校進学と同時に、私を溺愛してくれた大学生の姉と二人で、県内で1番大きな市で暮らし始めた。私は、私を鬱々とさせる原因を、社会に出ることを恐ろしく思わせる原因を、可能な限り、取り除けられるものであれば、取り除きたかった。あの山奥にいることは、私を不健康にさせる環境要因に十分なり得た。もしそうならなかったにしても、少なくともはっきりと言えたことは、あの山奥にまた三年も居続けたら、大人になった時、たらればと、何かうまくいかないことがあるたびに、あの山に生まれたことを、あの山で18まで世間知らずのまま籠の鳥にさせられていたことを、世間一般の大多数の人々とは少し変わった環境で育ったことを、なんの躊躇もなく言い訳として、後悔として口にしただろう。それがすごく嫌だった。

 


失敗したって、それが自分で決めたことなら構わないだろうと思った。だからできる限り、人生の選択は自分の意思で成り立たせたいと、15の時点で私はこれからの人生の歩み方を強く考えていた。まずあの山奥から出ることは、私が私の足で人生を歩むために必要最低限な条件だと考えた。そして、少しでも都会に住みたかった、あんな山奥じゃなくて普通の街に住んでみて、それで初めて、自分が異常なのかどうかわかる気がした。普通になりたい。ちょっとクラスメイトより机に向かう時間が好きで長いだけで、ちょっと集中力があって呑み込みが早いだけで、ちょっと運動が得意なだけで…何もかも簡単に1番になれるような社会の常識から逸脱した狂った環境にいることには、もう耐えられなかった。願わくば高校では埋もれたかった。なんの取り柄もない、平凡で中間の人間になりたいと、心から望んでいた。

 

 

 

しかし結局、思ったより高校でも私は優等生だった。埋もれなかった。学校は、私にとって易しい環境だった。願いに反して成績は上位のままだった。成績さえ上位なら、学校という環境では簡単に特別な可能性を持つ人間になれてしまった。私は自分が嫌いだった。それが偽物の特別だと分かっているのに、ちゃっかりその特別に安心している自分が嫌いだった。

 

 

 

逃亡

 


私と絵

 

 

 

しかし、絵を描くことが、ただ純粋に楽しくて安心できる救いの行為であり続けたのは、大学受験が始まる前までだった。

 


2年生も後半に差し掛かれば受験を意識しざるをえなくなった。競争が始まった。また進路も考えなくてはならなくなった。私は焦った。この頃の私は、まるで喉の奥でぐっと叫びたい衝動を堪えているような状態で、刻一刻と近づく、社会に放り出される瞬間を恐れ、なんとかしてその時を先延ばしにしようと必死になった。私は自分の勘違いに気がつきはじめていた。私は、今抱いている鬱々とした気分は思春期特有のもので、歳を重ねれば自然と薄れるものだと思っていた。ただ今は、耐えているだけでいいと思って過ごした。なのに、一向に、自分が健康的になっていく気配はしなかった。

 


私はまだ、14の頃から抱き始めた、出どころはわからないが確かに自分の中のどこかから湧き上がる、不穏な気持ちに、漠然とした不安や葛藤に、1ミリだって解決の糸口を見つけてはいなかった。

 

 

 

生い立ち①中学時代より抜粋「〜…この後私が進むべき1番平凡で幸せな道は、まずなるべくいい大学に進み、なるべくいい会社に入り、自立することだと分かった。大事なのはここからである。そして「仕事ダリィ行きたくねぇ」とTwitterに書き込みながらも週5で仕事にいく。お給料でオタ活したり、休日に遊びに出かけるのを生き甲斐とする。日曜日の夜にはサザエさん症候群になり、月曜日が来なければいいのにと何度も願いながらも争うことはできずまた仕事にいく。これを何十年も繰り返す。というなんともつまらない未来が、やけに鮮明に思い浮かぶようになった。社畜という言葉があることをTwitterから学んだ。こんな未来はどう考えても退屈すぎるのだが、でもこれこそが、私の求める普通の幸せらしいのだ。というのもこれが今社会に生きている大多数の大人たちの実情で、平凡に幸せであるとはこういうことなのだ。漠然と、私も普通に幸せに生きられればいいと思っていたのだが、こんなのが普通の幸せなのかと思うと、何だかゾッとして、大人になりたくないと真剣に思い悩む様になった。……」

 

 

 

今思えば中学から高校に上がった程度で、たいした新しい経験も積まず、それどころか自分の殻に篭り、失敗を恐れて消極的に生活していたので当然なのだが、私は18になっても、そうやって14の時と変わらず、社会に出ることに対して、もっと大きく捉えれば、この世界で私が生きていくということに対して、漠然とした酷い不安に襲われて、眠れない夜を多々過ごしていた。私はやはり何か精神的な病気なのかもしれない、いやこれは甘えだ、こういう性格だ、だとしたら治さなければならない…。また延々と、出口の見えない孤独で惨めで無様な自問自答が始まった。

 


だからといって、今から思い切って、この不安や葛藤を、根本的に劇的に解消しようと試みることも、18の私には憚られた。きっといざそうやって、その喉元に大胆にも触れてしまえば、18の私はその瞬間、確実に絶叫して、プツりと何かが切れて、何もかもダメになってしまうような気がした。というのも、今までだってそうだったのだ。なぜああやって絵に没頭したのか、なるべく傷つかないようにと、自分の殻に必死にこもったのか、それは今この不安に正面から向き合って、立ち止まってしまったら、きっとしばらく一歩も動けなくなる気がして、立ち止まれなかった。つまり、はっきり言って私は高校に上がる時点で、不登校一歩手前だった。本当は15歳の時、少し休みたかった。私の中に湧き上がって消えない不安だけに、ただ向き合ってみたかった。幸か不幸かそれは許されなかった。そうやって私の喉元に潜んだ絶叫は、拗れていった。

 

 

 

 


優等生であり続けてしまったこと

 

 

 

私が成績を維持するために、特別にすることはなかった。ただ先生に言われた通り、予習復習をこなす、小テストがあるならその範囲を勉強しておく、テスト前なら家にこもってテスト勉強をする、そうやって与えられたことを与えられた通りにするだけだった。そうやってどんな物事も、与えられた通り、真面目にこなすことができる、真面目にこなすことしかできない、ただ真面目なだけの自分が嫌いだった。そのただ真面目でいることが、学校という環境ではものすごく高く評価されたことに、もどかしい気持ちになった。私にとってはそれは、特別でもなんでもなく、最低限のことにすぎなかったのに。

 


褒められても、正直に、最低限のことをしているだけですと答えたら、先生には流石に笑われてしまったが、不幸なことに、そうやって頑なに真面目だった私は、多くの大人たちに歓迎され、学校というシステムに歓迎され、デッサンという研鑽の行為に歓迎され、結局、美術科クラスで絵までが成績上位の優秀な人間になってしまった。その災難は、私をそれから長く苦しめさせることになる。

 

 

 

 

周囲から受ける私への高い評価と、私が私自身に下す低い自己評価のギャップに苦しんだ。周囲から高い評価を受ければ受けるほど、私のプライドだけが高くなり、肝心の自己肯定感は下がる一方だった。

 

 

 

 


平凡であり、特別でありたかった

 

 

 

何度も言うが、私は高校生になって都会に住んだら、大勢の子供のなかで、自分の個性や能力なんて埋もれてしまって、なんだ私ってこんなものか、田舎だったから私はすごかっただけだと、自分の平凡さに一度、打ちのめされてみたかった。成功体験ばかり積み上げて、歪んだ環境で得た高すぎる自己評価を壊してしまうことが、私を今すぐに健康な子供に戻して、健康な大人へと道を歩ませる、最も有効な解決策だと思っていた。だけど高校に上がった時点では、まだそれは叶わなかった。

 


ただ平凡であることに打ちのめされて、その平凡さをあるがまま受け入れてさえしまえば、もう私は自分の可能性とか、人よりも優れた能力とかを信じて、頑張ることを諦められたはずであったのに。私は大したことないから、なんの取り柄もない人間だから、普通に暮らすしかないんだと諦めて、普通の大人になることを受け入れられたはずだったのに。

 


私の話の矛盾点を指摘すれば、本当にただ埋もれたかったのなら学力の高い普通科高校に行けばよかった。でもそれはできなかった。私は平凡にもなりたがったが、それ以上にオンリーワンになりたかったから。だけどその方法は、まだ手探りの状態だったから。ナンバーワンのなり方は知っていけど、オンリーワンのなり方はわからなかったから。私は弱くて、ずるくて、自分で自分を愛せないくせに、プライドだけはすごく高くて、周りからの評価もちゃんと気にするし、高校生活中、ただ埋もれてしまうだけでは、惨めで、1日だって生きてゆけない気がした。その上、私は馬鹿で、ただ熱心に絵さえ描いていれば、漠然とオンリーワンになれる気がしていた。そうやって深く考えようともせず、とりあえずわかることを優先して、つまり、またナンバーワンは最低限目指して、不安になった時に、自分で自分を慰めて安心できる居場所として、相対的な特別を、確保し続けていたことが、私の学生生活を、労力のわりに身に成長のない、つまらないものにさせていた。

 

 

 

特別であり、平凡でありたい、その二つの願いは、当時の時点では相反するものに私には思えた。私はその相反する二つの理想の間で葛藤しながら、学生時代を過ごした。

 

 

 

私はずっと、自分を見つけられずにいた。平凡で特別な、愛すべき自分を見つけられずにいた。もしもこの不安定な状態のまま、私にとって易しい学校という環境から、私にとって未知で、きっと厳しい社会という環境に放り出されてしまえば、私はただ社会の荒波に揉まれて、身体を引き裂かれて、死んでしまうか、死にきれなくてもがいて苦しんで、耐えきれず、自分で自分を殺してしまうと思った。学校にいれば、まだ自分で自分を慰められて、正気を保つことができた。穏便にやり過ごすためには、また問題を先延ばしにすることしか思い浮かばなかった。私は何度も逃げる方を選択してしまう。そうやって案の定私はその後、東京芸大受験を口実に、二浪することになる。

 

 

 

 

 

 

オンリーワンになるって何。

 

 

 

高校3年生の秋に、決定的に打ちのめされる事件があった。私はこの学校に、絶対的な価値を求めて来た。絵を描くという行為を繰り返し、研鑽を積めば、その先には自然とオンリーワンな自分が形成できると思っていた。

 


しかし、そう簡単にはいかなかった。私は卒業制作で、森の中の絵を描いた。院展系の作家さんの画面の雰囲気を意識して、着想は菱田春草の落葉、手塚雄二さんのスケッチを参考にした。大きな画面に挑むから、一手一手逆算しながら失敗のないように確実にかいた。そのどれもが、自分のオリジナリティーを表現しているとは到底思えない行為だった。私は、美術大学に行くのに相応しくない人間であることを、もう覆しのないほどにはっきりと、その絵を描き終えて感じた。

 


前々からその不安は感じていた。美術科に進学したものの、美大に行きたいと思ったことがなかった。私は特別絵が好きで得意というわけではなかった。勉強も好きだったし、運動も得意だった。絵もその一つに過ぎなかった。確かに私は熱心な生徒だったし、こんなふうに絵を描くことに対してネガティブな言葉を並べる私を知ったら、当時の優しいクラスメイトたちはもしかしたら悲しく思いさえするのかもしれないが、私は、直視したくない現実から目を背け、卒業するまで穏便に時間を稼ぎたいという消極的な原動力で、異様なまでに絵に没頭している愚かな人間だった。

 


母はそのことに気がついており、早くから私に普通大学を進めていた。同時に母は、私の葛藤や、悲鳴を堪えたその喉元に、迂闊に触れてはいけないことも知っていた。母以外の家族は誰も、私の進路に全く口出ししなかった。興味がなかったのか、成績優秀な私を信じて任せていたのか知らないが、だから最終的には母も私に任せるようになり、私は自分の思うがままに、ほとんど去勢で美大を目指した。

 

 

 

先に書いた通り、私は、特別であり、平凡でありたかった。平凡になることは簡単だった。頑張らなければいいだけだ、適度に手を抜くだけだ、与えられたことをせず、不真面目になるだけだ。だけどその中で特別になるには、どうすればいいかわからなかった。私は頑張ることしか知らなかった。

 


特別のなり方がわからないまま、ただ手を抜いてしまえば、私は単純に、落ちこぼれるだけだと思った。もっと言えば、手を抜かなくとも、頑張れば頑張るだけ評価されるとは限らない社会という環境に出れば、私は自然と落ちこぼれる可能性があった。私は落ちこぼれたことがなかったから、それがすごく怖かった。

 


落ちこぼれてしまえば、私は今よりももっと、自分で自分をどう愛せばいいか、わからなくて途方に暮れるだろうと思った。それを思うと、やっぱり、絵が描ける個性が私には必要だった。絵を描くことが私の取り柄になると信じた。絵が描けるという人と違った個性が、周囲の誰からも評価されなくなった時に、私が私を自分で特別だと思える、私の絶対的な価値になってくれるはずだと信じた。

 

 

 

 


でも、はっきり言って、今の私が美大にいっても、誰かを模倣するか、誰かの美の基準に準じた、個性の全くない、何番煎じの絵しか描けない。

 

 

 

 

 

 

高校三年の秋の回想に戻る

 

 

 

でも、はっきり言って、今の私が美大にいっても、誰かを模倣するか、誰かの美の基準に準じた、個性の全くない、何番煎じの絵しか描けない。

 

 

 

高校三年の秋、卒業制作を終えて、そう思うようになってから、私はデッサンが思うように描けなくなった。ノウハウとか参考資料とか、そういうのが悪にしか思えなくなった。先輩の絵に憧れ、近づきたいと必死になっていたそのモチベーションが崩れた。何を目指して描けばいいのかわからなくなった途端、頭にモヤがかかり、全く筆が進まなくなった。目指す基準、模倣すべき参考資料がなければ絵が描けない時点で、本当に私は絵を描くのに向いていないのだと、取り返しようのない後悔のようなものに苛まれた。高校の選択を間違えた気さえした。20にもなれば自然と普通の大人になれるという頭の悪い思い込み、だからその場しのぎができればいいなんていう短絡的な考え方はやはり甘かったのだと、自分の愚かさを責めた。

 

 

 

高校生活を終えた。私の想像ではこの瞬間、思春期の苦しみから解放されるはずだった。普通の大人になるはずだった。私の喉元にはまだ、誰にも聞かせられない、でも本当は誰かに聞いて欲しい、かといって言葉にはできない、どうしようもない絶叫が張り詰めていた。臆病な私は、まだその喉元に触れることができずにいる。もしも少しでも傷ついて、張り裂けてしまえば、私は悲鳴をあげて、地に叩きつけられて、再起不能なまでに落ち込んでしまう予感がした。そうなったら、本当に惨めで、情けなくて、もう頑張ることができない。頑張ることしか、今の私にはできないというのに。

 


私は再び、傷つかないために逃げる方を選択してしまう。私はこれから美大受験のために一浪する。

 

 

 

 


私は、私の絵に今はオリジナリティーがなくたって、もっと勉強すれば、いつかは私なりの絵が描けるようになると信じた。もしもそうやって努力した結果、私なりの絵が描けるようになったら、それは完全に特別な私になれたということだ。そのシンプルさ、その単純な思い込みに、絵に、私の価値の全てを預けた。これは間違いなく私の逃避行動だった。私は頑張ることしか知らなかった。そんな私にとって、熱心に描けば描くほど成熟する絵画は、ゆりかごのように居心地のいいものだった。また、頑張ることしか知らない私にとって、頑張ることが推奨され、頑張れば報われる可能性が大いにあるとされた美大受験という環境は、頑張りが報われるとは限らない、ゴールのない社会に出るよりはるかに易しい環境だった。幸か不幸か、クラス内のコンクールで上位だったこと、賞を取ったこと、家族が健康で、家計に余裕があったこと、何もかも恵まれた環境が、私の現実逃避を加速させた。

 

 

 

 

 

 

 


過去を悔いてもしようがない。今置かれた状況で最善を尽くすことしかできない。最低でも、今できることは全力でやる。19の春もその方針で始まった。高校時代、何度もそう言い聞かせては邁進してきたおかげで、成績は安定して優秀だった。私は哀れなほどに努力家だった。そうやって哀れでも、優秀で努力家な私ならきっと、東京芸大に受かる気がした。どれだけ本当の自分が弱くて醜くて哀れだろうが、周囲の大人は私の熱意や努力を歓迎し、高く評価してくれた。私は頑張ることしか知らない。私は頑張ることなら知っていた。頑張ることだけには自信があった。

 

 

 

(こうやって、頑張れば報われるという、せめて学生までしか通用しない単純な構造の環境にいつまでも入り浸ったことが、私の現実逃避と歪んだ自己評価、自己肯定感をどんどん加速させ、いつまでも私をただ優等生な「子ども」にさせていたのだが。)

 

 

 

浪人生活中、手を抜くつもりは毛頭なかった。せっかくここまで来たのだから、絵と心中するつもりで、もう一度本気でやってみよう。新しい気持ちで絵を描こう。もっともっと勉強して上手くなれば、きっと今度こそ、私の意思で、私だけの絵が、描けるようになるはずだ。

 


私は今度こそ、オンリーワンな自分になるんだ。

 

 

 

 


…人は、生まれてからずっと、オンリーワンで無いことなどない。つまり、人はいつだってオンリーワンである。いつだって人は、特別で平凡な、オンリーワンである。

 


私は、私のままでいい。私は、ただ生きているだけで素晴らしい。価値がないことなどない。むしろ、価値など初めからない。生きることに意味などない。そのままでいいのだ。一人一人が、ただ一人の、ただ人間なのだ。

 

 

 

でもまだ、19の私はそのことに気づかずにいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


余談 母の死について、メモ程度の記述

 

 

 

母の死は、そんないつまでも「子ども」から抜け出せずにいた私を、強制的に大人へと導いた。「親の死」という事件は、鮮烈に、まるで私の自意識を根底から覆し、自立を促し、これまでの生活とこれからの生活との間に、はっきりと濃く、不動のピリオドを打った。

 

 

 

 


母の死によって解放された、私の弱い心についての記述

 

 

 

母は、あまりにも健康的で、あまりにも素敵な人すぎた。私の去勢は、ほとんどが母に対抗するためのものだった。

 


母が作り上げていた家庭は、まるで不健康なものが一切なく、明るく、温かく、清潔で、食事もおいしくて、完璧に理想的なまでのものにすら思えた。

 

 

 

 


そこで暮らさなければならなかった、そこに帰らねばならなかった、不健康な私。

 


大きな欠点などない、ともすればこれ以上にないほど充足した家庭環境を前にしてしまえば、私が不健康であるとして、非があるのは、私の方だった。不健康であることは、いけないことだった。私の内面が、おかしいだけだ。そうやって私の葛藤は一人で大きくなるばかりだった。

 

 

 

母を失い、私の家は崩れた。もう元には戻らない。あの頃以上に充足することは今後ない。そのことは、寂しくも、私を安心させた。私は、母が病気になって、母が死んで、私が不健康であることを、初めて許されたような気がした。

 

 

 

母に誇れるような人に、なろうと思わなくて済むようになった。私は頑張ることが減った。等身大でいることが増えた。私の等身大は、母の半分くらいの人間だ。母はエネルギーに満ち溢れた人で、私のエネルギー量は、母の半分以下だった。(姉も、母に似て、私の倍以上は裕に働ける強靭な人間である。)

 

 

 

もちろん、私はそんなエネルギッシュな母のことを、心から尊敬していた。

 

 

 

もちろん、私は母が死ぬことが、とても悲しかった。

 

 

 

 


私は、母が死ぬ時に、なぜ母なのだろうと思った。母は、もしも200歳まで生きろと言われても、持ち前の好奇心と行動力で、一生楽しく生きることができるような、生きることに決して飽きたりしない、魅力的な人だった。

 


だけど、死んだ。勿体無いと思った。早く死にたいとか、生きるのが辛いとか、生きていても楽しいことがないとかいう人よりも、早く死んだ。

 


母なら、絶対に楽しく、明るく、幸せに、いつまでもいつまでもいつまでも、元気いっぱい魅力的に生きたはずなのに。

 


母は多分、他の人の二倍速で生きたんだと思う。生きることを、どんどん楽しんで、幸せをどんどん吸収して、どんどんその幸せを周りに分け与えて、フルパワーで生命を循環させて生きたから、結局、人の二分の一の寿命になったんだと思う。

 

 

 

そんなことを考えながら、私は母を看取った。

 

 

 

 


きっと、私はダラダラと、100歳まで生きる側の人間だ。辛いとか、死にたいとか言いながら、母のような明るくて生命力に満ち溢れた人々に助けてもらいながら、しぶとく不幸に生きる人間だ。最悪なことを考えれば、そういう私みたいな生命力の不足した人間が、母のような生命力に満ち溢れた人間に寄生して、寿命を奪っていると考えられる。

 

 

 

私には、今、大切な人がいる。大好きな人がいる。その大好きな人を殺さないために、大好きな人と二人で、これから先ずっと幸せに生きていられるように、今、やっと自分の心と体に、本格的に向き合っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、働き者を、働かざる者が、早死にさせている。これは、世の常なのかもしれないな、などと思ったり。

 

 

 

 


最後まで読んでくれて、ありがとう。