自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

予兆 酷い体調不良。1月末、病院へ。

 

 

はじめに

 

2022年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 

月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 

自分の身体と心をもっと理解したいです。

 

 

 

 

#日記  #月経前症候群 #フリーター #20代

 

 

 

 

予兆 2023年 1月29日

 

 


25日の深夜に、今月の月経が始まった。

 


その前の夕方に、内科に行き、ひどい頭痛と頭皮の腫れの原因が肩こりだと知って、家に帰るとすぐに念入りにストレッチをした。それから二、三時間眠って深夜に目が覚めると、頭痛が治った代わりに月経が始まり、今度は腹痛のために痛み止めを服用するようにはなったが、ようやく身に慣れた痛みに戻ったことに奇しくもひと安心した。

 


しかし安心したのは一晩だけだった。次の日の晩に、また深夜に目が覚めてみると、何か心がザワザワと落ち着かない感じがした。昨晩目が覚めてから、そのままシャワーも浴びずに朝を迎え、仕事に行ったきりで、今日も仕事が終わるとシャワーを浴びずにそのまま寝てしまったので、この不調は体が不清潔で、特に血がこびりついた、生理ナプキンをした股の汚れと蒸れている不快感だと真っ先に思い当たり、布団から抜け出し、素早く浴室に向かった。

 


お湯をためている間は、これから体を綺麗にするというのに、風呂上がりの部屋がこのように散らかったままでいては不釣り合いだからと、早急に片付けをし、ゴミは朝出すためにひとまとめにした。お気に入りの、ホワイトムスクの甘い香りのする除菌消臭スプレーを、鏡の前のカーペットに軽く吹きかけて、部屋全体に向けて香と除菌消臭効果をあわせ持つアロマディフューザーを焚いた。

 


お湯に浸かると体がほぐれて、頭痛はより改善された。だけど気持ちはまだ憂鬱な感じがした。なんだか喉の奥がギュッと狭まるようにして、息が苦しかった。なんだか漠然と寂しくて、心がソワソワと落ち着かず、寝不足だというのに嫌に目が冴えていた。これだけ環境を用意してもこうであるというのは、今回ばかりは精神的な問題ではなく肉体的な問題、肉体的な疲労が溜まっているのだろうと思った。それと、膣の経口に一点の違和感があった。丸一日中、シャワーをサボり、不清潔でいた怠惰が祟ってしまったのだと自分を咎め、どうか悪化しませんようにと願いながら念入りに体を洗った。

 


十分に温まってから風呂を出て、火照りをとるために裸のまま水分を取り、身体中に保湿クリームを塗った。下着だけを身につけ、柔らかくなった関節の可動域を最大限まで使って、のびのびとストレッチをし、それから清潔なパジャマに着替えた。鏡に向かってゆったりと腰を下ろし、見慣れた顔に優しくたっぷりと化粧水を染み込ませ、丁寧に髪を乾かした。身支度が全て整った頃に、同室で寝ていた彼が起き出して、静かに自室に戻っていった。その姿を見届けるとすぐに、つい先程まで彼が寝ていた、生ぬるい湿度と温度が残る、二人分の寝汗の匂いが充満するロフトにサーキュレーターを回した。それからおろし立ての無臭の除菌消臭スプレーを、掛け布団から敷布団にまで、全体に満遍なく吹きかけた。一階にもコロコロをかけて、無臭の除菌消臭スプレーを同じようにかけた。日の出には早いがゴミ出しをして、一息つくことにした。

 


先週からこうやって、夜な夜な部屋中を清掃することに、やけに熱がこもっていた。自分が潔癖症か、正直にいってしまえば、どちらかといえば汚部屋に住む彼氏への嫌味に、神経質になってしまったのではないかとその精神を疑ったが、きっと生理の影響で、感覚が繊細に、敏感になっているのだろう。

 


体も、部屋も、これ以上になく充分に綺麗にしたはずであるのに、やはり今日は、いつもと違って、うまくモヤモヤは発散されなかった。しばらく机に向かい、好きなことをして過ごすも心は晴れず、寝不足であるというのに一向に眠気の訪れる気配がしなかった。日が昇りだす時間になったため、ハニカムシェードを採光モードにし、自然の明かりの中、軽く朝食をとった。それからダメ押しに、皿洗いとトイレ掃除を行った。知らない間にすっかり埃と汚れをかぶっていたトイレの床を最後に綺麗に拭き上げると、やっと何かスッキリと腑に落ちるものがあり、心が落ち着くところに落ち着いた感じがした。便器を磨いているタイミングで、身支度を整えた彼が部屋にやってきて、皿洗いも済み、片付いた部屋を見て、ご苦労様と私に声をかけた。

 


今日は彼と勤務地が同じだったため、一緒に行こうかと声をかけ合っていたものの、やっとひと寝りできそうな眠気が来ていたので、朝8時半、彼にことわって布団に入った。すぐに深い眠りにつき、よく眠ったが、すっかりいつもの出勤時間を超えてしまい、心配した彼からの電話で目覚めて、渋々家を出て、今日は1時間遅れてお店を開けた。27日の話である。

 


27日。結局お店でも眠気が取れることがなく、お客の減った午後3時から小一時間ほど、机につっぷして完全に眠ってしまっていた。それでもどんよりと重い眠気とだるさが取れることはなく、17時ごろにはもう帰ってしまおうかと弱気になったが、彼に励まされてなんとか最後の19時まで勤務した。

 


帰り道はひどいものだった。足取りはふらふらとおぼつかず、自力で地面を踏みしめ、一歩一歩足を前に進めるという行為が大変な苦労に思えて、私は彼の腕にがっしりとしがみつき、彼に引っ張ってもらう形で進んだ。これは私たちにとってはよくある光景で、すっかり呆れてかえって何一つ文句も言わず、淡々と進む彼の隣で、私は安心しきってさらに甘えて歌を歌ったり、ヘラヘラと支離滅裂な言葉を浮かべることで気持ちを保ち、なんとか歩いた。彼の希望でマクドナルドに寄り、私はエッグチーズバーガーとサラダとコーラを購入して、これを今日の晩ごはんとし、地下鉄で帰った。

 


帰宅後、食事を済ませると、すぐに布団にもぐって眠りについた。21時就寝。

 

 

 

28日。まるで何か知らないうちに、合図でもうけているのかと疑うほどに、今日もきっかり0時に目が覚めてしまった。生理の期間中はストレスが溜まりやすく、その上に寝不足だなんて特に禁物であるというのに、こうも深夜に目が覚めて眠れないとは、踏んだり蹴ったりで、なんて散々な日々なのだろうとため息がこぼれた。同時に体に不快感あり。昨日気にしていた、あの膣の出入り口の一点の痛みと痒みが、切なる願いに反して増していた。日中こまめに新しいものに換え、清潔に保っていたつもりの生理ナプキンが、やっぱり擦れて痛くて気になって、今晩は特に眠れる気がしなかった。

 


少しでも痛みと痒みが治るように、今日もじっくりとお湯に浸かることにした。お湯に浸かっている間は不快感を免れた。今辛いところの多い身体中が、この時ばかりは隅々までほぐれて、芯まで休まる感じがした。たっぷり1時間湯船に浸かり、風呂を上がった。体がポカポカと温まって、痛みも痒みも抑えられているうちに、野菜スープを作ることにした。寝不足でも、せめて体にいいものを食べさせてあげたい。それに、このような体調であるというのに、前日の晩御飯がマクドナルドなのは心許ない。幸い手際良く作ることができ、炊き立てご飯で作ったふりかけおにぎりと一緒に、美味しくいただいた。

 


それから少し机に向かって好きな作業もできた。ただ、今回ばかりは精神の問題として自力で誤魔化しようがないほどに、不調は酷く明らかで、今日という日がこの不調の我慢の限界であることを悟った。まずおそらく、性器ヘルペスができてしまったのだろう。日が昇ったら、産婦人科に行こうと固く決めて、それからはまた体の不快感と不安に悩まされて、一睡もすることなく朝を迎えた。

 

 

 

先日から大寒波が日本中で猛威を奮っていた。産婦人科めがけて朝一番に家から出ると、青空の下、冷たい風が街中に強く吹き荒れていた。確かに寒かったが、この寒さには身に馴染みがあった。確かに冬とはこういうものだったと、去年まで過ごしていた田舎の山奥での生活を少しだけ思い出した。

 


初めて入った近くの産婦人科は、まるで絵本に出てくるような、いい意味でどこにでもある普通の病院で、とても気に入った。先生が親身に話を聞いてくれて、かつ的確にアドバイスをくれて、とても信頼できそうな方で安心した。凍える風が吹き荒れる外を歩いている間は、なんてことなかったのに、診察していただく間、先生の前では体がガクガクと震えた。緊張か、安心か、どちらにせよ、自分が辛いことを誰かに聞いてもらうという行為が、感情の制御を相当難しくさせるということを、他人事のように感じた。口に出して初めて、自分がどれだけ心のうちで葛藤していたか、どれだけ辛さを我慢して、胸の内に押し込めていたのかを知る。

 


10時半、帰宅し、軽く食事をとりながら処方された薬を服用し、すぐに就寝。

 

 

 

17時、起床。かなりしんどい。全身がだるい。頭が重い。患部も痛む。薬を服用するために無理やり食事を取る。昨日の残りの野菜スープを飲む。お腹が減っていた。できることなら本当は、出来立て熱々の、優しい卵料理が食べたい気分。いてもたってもいられず彼に連絡するも、彼は彼でその頃ストレスが溜まっており、かつちょうど寝ていたようで不機嫌極まりなく、私の願いは何もかも断られた。通話を終えると、私は思わず号泣した。

 


家族には、優しくされて育った。こんなに辛いのに、病院にかかったほどだというのに、家族のような存在だと思っている彼から、期待に反して全く優しくされなかったことに、落胆した。子供が癇癪を起こすようにして、当然だと思っていたことが全く思い通りにならないことに憤りを感じ、それで泣くのはあまりにも子供すぎるし情けないとわかっていたけれど涙は止まらなかった。病気になったら家族が世話をしてくれて当然と思っていること、つまり自分が弱っている時は人を頼ることを当然と思っているその甘さを、否定された気がして辛かった。だけどそのことがどうして悪いのか、考えたけれども納得できなくて、悔しくてさらに激しく泣いた。

 


しばらくして、彼が部屋にやってきた。結局、彼は私の希望以上の買い物をして来てくれた。なか卯の親子丼、コンビニでウィーダーインゼリー、ポカリ、私の好きなヨーグルト、まだ遠距離だった頃に、彼の部屋に遊びに行くたびに頻繁に購入していたインスタントの味噌汁、最近よく飲む野菜ジュース…。ついつい、私のことわかってるじゃん、なんて口に出していってしまった。嬉しかった。失礼ながら心の中で、やればできるじゃんとか思って、私の彼氏最高だなんて勝手に満足した。ちょっとだけ、また彼を私の思うがままに操作して、我慢させたことを申し訳なく思ったが、今回ばかりはそんな後ろめたさには目を瞑って、この喜びに一心に浸ることにした。

 


なか卯の親子丼を食べたら、そのあまりのおいしさに、涙が溢れた。さっきまで、本当に辛かった。どうして優しくしてくれないのだろう。病気で辛い時くらい、優しくされて当然だと思って何が悪いんだ。甘えちゃいけないのは何故だろう。私と彼は愛し合っていて、辛い時は助け合う仲だと思っていたのに、この愛の価値観は一方通行で、私はまた彼に勝手な愛を押し付けていたのだろうか。などと、冷静さを失い、彼の都合そっちのけでまっしぐらに自分の辛さに苛まれ、負の感情にどっぷりと浸っていた。この親子丼は、そんなとめどなく溢れる負の感情に、あっという間に蓋をした。私は親子丼を口に運ぶたびに、可笑しいくらいに全てがどうでもよくなっていくことに拍子抜けして、まさに堰を切るようにして、今度は嬉しくて涙を流した。

 


ひとしきり涙を流し終えて、お腹も膨れて満足し薬を服用すると、また眠りについた。

 

 

 

29日朝5時。

 


せめて暖かい季節であれば、もう少し楽であっただろうにと思う。今月の電気代の請求額に驚愕し、できるだけ着込むことで、先程まで暖房をつけることなく節約して過ごしていたが、いよいよ足が冷え切ってきて、体調を悪化させては元も子もないと、今しがた渋々暖房をつけた。母が死ぬ間際のことを思い出す。母が急激に体調を崩していき、初めて寝たきりになった2月はまだ、毎朝晩の気温が氷点下に及ぶ、春にはほど遠い、雪と氷の世界真っ只中だった。

 


母の死を思うことに、限りある脳のリソースをなるべく割きたくはないから、普段はなるべく母のことは忘れた状態でいるようにしている。けれど、だからと言って母と過ごした時間をうっかり忘れるわけにはいかない。忘れてしまうには惜しい程に、私にとって重大で大切な時間だった。だから寄り道にはなるが忘れないためについでに少し記しておくことにする。

 


3月になっても、気温はなかなか上がらなかった。実家では常時部屋を温めることはしなかったから(今思えば病人がいるのだからもっと気を利かせればよかったと思う。)冬は布団から出るのがとても億劫だった。私は朝になると、母の呼ぶ声で慌てて布団から寒い室内へと飛びだすと、暖かいお湯を用意しては、母を足湯させたり、熱々のタオルで母の体を拭いたりした。母の手足は冷え切っていて、カイロを用意したり、足をマッサージしたりして温めた。着替えさせるときやお風呂に入れるときは、私の手際が悪くて、何度も寒い寒いと怒られた。

 


春が少しずつ近づいて、植物が芽吹き、黄色い花から順に咲く頃に、寒さが徐々に綻ぶのに合わせるようにして母は奇跡的に体調を取り戻した。母を車椅子に乗せて、日差しがよく当たる縁側まで連れていき、のんびりと日光浴をした。母と一緒に、静かに春の訪れを知らせる、ささやかな庭と清々しい空を眺めた。窓をあけ、風を送ると、母は肺が洗われると満面の笑みでよろこんだ。そうやってベットから起き上がれるようになった母は、車椅子に乗って真っ先に台所へ赴き、体力の続く限り、美味しい料理を私たちに作ってくれた。

 


寒くて長くて暗い冬は、母の寿命を刻々と奪う勢いで、私には乗り越えることができないように思えたけれど、それを母はなんとか乗り越えて、こうやって春を迎えた。それは奇跡としか言いようがなく、心から喜ぶべき出来事だった。この奇跡の時間が、私が母と過ごした今までの人生の中で、一番幸せな時間だった。私は母が寝たきりになってから初めて、母に何かしてあげることができるようになった。これまで何もしてあげられなかった私に、母は辛抱強く時間をくれたのだと思った。母は意識の遠のく中でも、最期には何度もありがとうと言ってくれた。私に、私のことをたくさん成長したと褒め、この選択でよかったと言ってくれた。

 

 

 

私は先ほど、彼が、体調不良である私に対して優しくしてくれないことを嘆いていたが、私は、彼には彼の都合があることを、また彼には、私がどれだけ辛かろうが、その辛さなど1ミリもわからないこと、つまり、病人に優しくするという行為が、思ったよりも人は自然にはできないということを、分かってはいた。というのも、なぜならこの私こそ、母が病気の間ほとんど、何もしてあげられなかったから。私の場合、母は死に至るような病気であったが、それでも私は、本当に最後の最後になるまで、病気の母に、十分な気遣いも、看護もしてあげられなかった。私はずっと、そのことを悔いていた。もっとできることはあったし、病気の母を想わず、とにかく自分中心に生活していたことに、なんて自分は子供だったのだと、ベットに横たわる痩せた母を見て、やるせない気持ちになった。

 


なか卯の親子丼に、あんなに涙を流したのは、本当に、ものすごく美味しかったのと同時に、穏やかに死んだ母の、最後のありがとうの意味が、勝手だけどわかったような気がしたからだ。彼の買ってきてくれた親子丼を口に運んだら、それまでの辛さとか、彼への不満とか、全部どうでもよくなった。たった一回、優しくされるだけで十分だった。もしかしたら母も同じように、最後に家族みんなで過ごせられたことが、住み慣れた家で、家族に看取ってもらえたことが、それだけで、酷い痛みも苦しみも、不満も、もしかしたらどうでもよくなってしまうくらい、十分に嬉しく感じられたのかもしれない。私は母に対して、最後の最後まで何もできなかったと言ったけど、だけどその最期に、本当にたった数週間だったけど、毎日母に付き添って、一生懸命看病をして、死ぬその瞬間まで、隣にいてあげることができたから、母はただありがとうとだけ言ってくれたのだろう。母はきっと、それまでの私を許して、そのたった数週間の私をちゃんと認めて、満足して死んだのだと、勝手だけど私はそう思うことにしたのだ。