自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

もう一度、海へ

 

 

2023.01.31

 

 

もう一度、海へ

 

 


どうしても、もう一度、夜明けの空に浮かぶ富士山が見たかった。願わくば今度は、地平線の先で小さく横たわる山脈の中で、真っ先に朝日を浴びて、ジリジリとそのシルエットを明らかにさせる、日の出の富士山の全てを見たかった。真っ暗な空と海が、時間をかけて、刻一刻と明るくなっていく様子が見たかった。

 

 


昨日は、出かけ際に勇佑を誘ったら、始発を逃してしまった。昨日の私は、彼が誘いに頷いた瞬間から、気分は完全にデートモード。彼とのお出かけが嬉しくて、浮かれ有頂天で、始発を逃したことは大して気にしなかった。横浜駅で乗り換えて、電車に揺られているうちに、乗り換えの横浜のホームではまだ真っ暗だった空が、既に明るくなっていることに気がついた。逗子駅に着いた頃には、すっかり朝焼けが始まっていた。海岸が見えてくると、いてもたってもいられず、彼を置いて私は駆け足で海へ向かった。

 


海岸を東へ歩くと富士山が現れた。その頃にはもう、富士山には完全に朝日が当たりきっていた。もしもう少し早く、この海岸から富士山が見えることに気づけば、景色の中で真っ先に陽光を浴び、段々と色を変える富士を見れたかもしれなかったのにと後悔した。(あまりにも悔し過ぎたから、富士山に惑わされず、じっくりと海と空を感じられたから良かったとする)

 

 

 


だから今日もういちど海に行くのは、そんな富士山の、今度こそ一部始終を見ることが目的である。いや、実際はそれだけが目的ではない。私はやはり、一人で海に行くべきであったと思った。もちろん昨日、最高の景色を大好きな彼と共有できたことは、幸せ以上の言葉では表現できないほどに嬉しいことだった。二人で出かけたことに微塵も後悔などしていないが、昨日は昨日、今日は今日で、私は別の海を、心に刻みたかった。一人で見た海を、心に刻みたかった。なんなら上書きしたかった。なぜなら、昨日のそれは、はじめに私が求めていたように、たしかに見事に非現実的なものだった。桃源郷か楽園とでも呼ぶべきその光景は、現実味など一切感じなかった。しかしそれは非現実でありながら、あまりにも理想的過ぎたのだ。それは、残酷に、むしろ現実を突きつけた。美しすぎる景色を、大好きな彼と見た最高の瞬間は、現実の延長線上に、現実の1番頂上にあった。非現実的でありながら理想的すぎたそれは、私の本当に求めるものではなかった。

 


天気は昨日の方がいいようだ。昨日は、急な思いつきだったのにも関わらず、雲一つない晴天のお天気で、風もなく、絶好の日だった。始発を逃したことに目を瞑れば、何もかも完璧だった。完璧すぎて、わたしは終始大興奮で、最高に浮かれていた。

 


今日は、ひとりで海に向かう。昨日より、電車の時間が長く感じる。昨日も通った、同じ道であるにもかかわらず、昨日以上に何度も乗り過ごしていないか確認する。無事に海につけるか、やけに緊張感がある。もしかして、海に着いても思ったようなものが得られず、なんだか落胆して、ただ疲れ果てて帰ってしまうのではないかなどと不安になる。

 

 

 

昨日は、隣に座る彼と、肩と肩とを密着させ、お互いに本を読んだり、思い思いに旅路を楽しんだ。電車の揺れに合わせるように心を踊らせ、ただのんびりと海へ向かった。今日は、体はこわばっていて、少し寂しい気持ち。本はたくさん読んだ。新しく届いた、20代に得た知見と、食堂かたつむりの続き。だけど、ちょっと心がざわざわする。なんだか、読むほど、自分に還元できているかと不安になった。つまり、あまり読むコンディションが整っていないらしかった。心から本を楽しんで読めなかった。ただ自分に何か変化が起きないか、自分がもっといい方向に変われやしないかと、貪るように読んだ。だから、苦しくなるばかりだった。

 


ああ、いよいよ逗子に着く。あと一駅だ。よかった、ワクワクする。緊張が解ける。やっと着いた。苦しかった。ここまできたら、あとは浜辺まで歩くのみ。まだ外は暗い。何と言っても、朝の6時前だ。5時50分。

 

 

 

昨日は、電車から降り、淡色の空、珍しい海辺の街並みに大興奮だった。はやる気持ちが抑えられず、海岸まで住宅街を走って抜けた。そうやって、興奮をぶつけたり、思いっきり分かち合える相手が昨日はいた。今日は、ワクワクを分け合う相手がいない。叫びたい声を抑えるようにして、喉の奥から込み上がるはやる気持ちを、キュッとこらえて真っ暗な道を歩く。昨日は、海風にさらされたのか、漂白されたように白い、海辺ならではの街の風景を楽しみながら歩いた。しかし今日のような暗闇の中では、街並みが白いなど知る由もない。控えめな街頭、信号機の灯りと、つきあたりにあるコンビニの灯りのもとでは、この道は、どこの街とも変わらないありふれたもので、私はただ真っ直ぐに、黙々と海に向かって歩くのみだった。

 

 

 

 


海に着いた。ドキリとした。底なしの暗闇から、白波が、おいでおいでとこちらを誘うように、繰り返し現れては消えた。そこに海があることを知らなければ、吸い込まれてしまうような漆黒の闇が目の前に広がっていた。まだ岐阜の山奥で住んでいた頃に、夜になると月明かりに照らされた山が、ただ真っ黒なシルエットになって、こちらに覆い被さる様にして迫ってくる恐ろしさと、同じ様な恐ろしさを感じた。

 


空がわずかに明るくなり、海と空の境界線が見えるようになった。色彩のなかった黒い海が、彩りを帯びた。初めは淡く紫色に。次第に、海は空の色を映しながらも、日の光を反射させ、他の景色よりわずかに発光するようにして、独自の色を放った。

 


雲が出ていた。だから、昨日のように真っ直ぐには空も、海も、明るくなってはいかなかった。日の出の時刻を過ぎても、海も空も、曖昧な中間色をその場に留めて、ただ波だけがゆらゆらと揺れた。

 


その、曖昧な中間色というのが、またなんとも美しかった。ほんの少しグレーがかった、くすんだ海の色は、青にも、緑にも、透明にも不透明にも、どの様にも解釈できた。気まぐれに、雲の隙間から見えたピンク色の朝の淡い空色を、反射させるわずかな色彩も美しかった。

 


私は今日、見たかった海をちゃんと見ることができた気がして、安心した。確かに昨日ほど、今日は完璧なお天気ではなかった。したがって昨日ほど、宝石のように輝いた海ではなかった。だけどなんだか、私はそんな今日の曖昧な海に、納得した。私は海を見た。どうしようもなく退屈を感じで、非現実を求めて、始発の電車に乗り、真っ暗闇の海岸に辿り着いた。目の前に広がる海と、一緒に朝を迎える、そんな非現実的な時間を過ごした。海は、美しかった。曇り空でも、美しかった。朝を迎え、その姿を徐々にあらわにさせていった海が、同時に私をゆっくりと現実に引き戻していった。完璧じゃなくたって、何色をしていなくたって、美しい海が、複雑で、曖昧な現実を、それでも美しいんじゃないかって、私に受け入れさせていくように、優しく揺れた。

 

 

 

 

 

 

おまけ 帰路

 

 

 

大船から乗り継ぎ、快速電車は横浜、川崎、品川を抜けて東京へと向かう。

 


逗子駅前のスターバックスで通勤ラッシュが過ぎるのを待った。8時を過ぎてもまだ人通りは絶えなかった。大慌てで改札に飛び込む学生がちらほら。知らない街の知らない駅前で、平日の朝を過ごす。これにはなんとも言えない贅沢な気持ちになった。今日は正午から仕事があるので8時半には店を出ようと決める。

 


電車は混んでいた。これが関東、首都圏の日常なのだろう。多少ピークからは時間をずらしたので、ぎゅうぎゅう詰めではなかったし、うまく座れもしたが、とにかく息が詰まった。初めは吊り革に捕まって、満員の車両の一画で、息を殺して電車に揺られた。勢いよく流れゆく横浜近郊の工業団地、ベッドタウンを眺めると、つくづく人間とはどこにでもいるものだと他人事のように思った。ここでどんな人がどんな暮らしをしているのか、淡く興味を抱くが、例えば実家のある岐阜の、三菱やらカルビーやらの工場付近の街並みと似ているので、あのあたりの人々と生活は変わらないのだろうななどと、自問自答する。

 


ここ最近の昼夜逆転生活の影響で、おそらく自律神経が乱れているのだろう、かなり頭痛がする。もしくは、インナー2枚にニットのセーター、カーディガンにコートにマフラー、重装備につき、肩こりが酷いのだろう。ああ早く家に帰って、思う存分ストレッチがしたい。