自分らしく生きたい

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【読書記録】島田潤一郎さん「古くて新しい仕事」 夏葉社/往来堂書店 他備忘録

2023年 3月16日(木)

 


先週、壊れたカメラのレンズを修理に出すために、上野のヨドバシカメラに行ったその帰りに、池之端に周り、古書ほうろうに寄って買い物をした。

 


そこで購入した、島田潤一郎さん著「古くて新しい仕事」というエッセイに、ここ数日間熱中した。夏葉社という、ひとり出版社を経営されて10年の島田さん。彼の誠心誠意の込められた、まっすぐな文章に、夢中になって数日を過ごした。

 


作中に出てくる、夏葉社出版の「レンブラントの帽子」「昔日の客」といった本が、実際にどんなものかと気になって検索をかけたところ、取扱店に、近所の雑貨屋の名前があった。

 


もう閉店時刻を過ぎていたが、店頭の、ガラス張りのディスプレイにある営業日カレンダーを確認するために、午後6時半、その雑貨屋を目指して家を出た。そのまま今日はバイト帰りの彼と、いつものとおり古書ほうろうで待ち合わせをして、仲良く帰宅する予定だ。

 


雑貨屋の正面にある、大通りに向かってまっすぐ伸びる細い路地に入り、突き当たって左に曲がるとすぐ本屋がある。今日の私は何となく、そこに吸い寄せられるようにして入店した。

 


往来堂書店、町の小さな本屋だ。入店は2度目だったが、今回、驚いたことがある。まず、夏葉社の本が、平然とそこにあった。作中の主要な本の全てが、お店に入ってすぐ右手の棚を、ほんの数メートル進んだところに、堂々と並んでいた。店内の本のラインナップを見回す。その決して広いとは言えない、限られた売り場で、思わず一点一点順に手にとってしまいたくなるような、個性ある本がずらりと並ぶ。見応えがある。隅々まで目を配る。小さな出版社の本が、堂々と陳列されている。よく見ると棚の隙間に、「ご希望の本は“速攻”で仕入れます!」との元気の良い文字入りのテープが貼ってある。

 

この書店は、まさに島田潤一郎さんの言う、本好きのための、生き生きとした本屋であることに気がついた。

 

1度目に入店した際は、(PayPayの割引対象店の期間中だったこともあり)大変混雑しており、じっくりと店内を見てまわることができなかった。それにも関わらず、うしろ髪引かれる何かがあったのが印象的な書店だった。

 

しかし、私はきっと島田さんのエッセイを読んでいなければ、この往来堂書店がちょっと特別な本屋であることに、今日もはっきりと気が付かぬまま過ぎてしまっていただろう。その巡り合わせ、本を通して、見える世界が変わったという実感に、感動した。

 

熱心に働く若い書店員の様子も相まって、私はすっかりこの店に親しみと居心地の良さを感じて、正直なところ財布に余裕はなかったが、本を3冊も購入して、店を出た。

 

 

彼と合流して、古書ほうろうでも一冊の古本を購入して、大満足のうちに帰路についた。

 

 

 

 

何気なくお店で手にとって、これなら読み切れると直感で持ち帰り、その本に想像以上に救われることが、東京に来てから多々あった。


ひるねこブックスで手に入れた、作家と珈琲(平凡社)、緑の本棚で手に入れた、植物癒しと蟹の物語(小林大輝 コトノハ)この2冊は、私の思い出の本だ。


まだ引っ越してきて間もなくて、どこか生活が地に足ついておらず落ち着かなかった頃に、近所を散策して手に入れたこれらの本は、まずはその内容の美しさで私を癒したし、それから、書店と本と私、足を運ぶ、気に入って購入して持ち帰る、そういう物理的な関係や経験が、私にこの地とのポジティブな繋がりを確実に作っていった。

 

 

 

 

 

最近、こんなにも生きることが楽しいものだったかと、思うことが増えた。


2月をこれまでで1番穏やかに過ごし、春の兆しに胸を躍らせながら3月を迎えた。


その間に、知らず知らず生活に、本が欠かせなくなっていた。

 

きっかけは、彼の部屋から借りてきた西加奈子さんの小説が、あまりにも面白かったことだ。まるで、今まで体内で不足していた栄養素が、急激に補給されるかのように、カラカラの喉にポカリスエットが染み渡って、ごくごくと喉を鳴らしながらそれを貪るように飲むように、私は本を、ぐんぐん読んだ。

 


寝る前に読む。朝起きて読む。移動中に読む。待ち時間に読む。気分転換に読む…。どんな時もページを開くと、あっという間に本の世界に没入した。

 


詰まるところ、本でないと癒せない心が、人間にはあるのだということを知った。

 

 

いまいち生活にインスピレーションがわかない時に、とりあえず本の続きを読もうと手にとる。どの本も美しくて、面白くて、私は夢中で読んで、それからほんの少し集中が解けて、ふと顔を上げたときに、あ、これしよう、と妙案が思いついたりする。


もしくは、ただ何もせず、ぼんやりと部屋を眺めるだけで、これ以上になく満足を感じたりする。そういう時は、完全に本の余韻に浸っている時だ。本当に心から、ただ生きているだけで幸せだと、穏やかに穏やかに息をすることができる。

 

 


2023•03•13•私の手帳の日記より


「確かに、“今日は絶対ダメな日だー!”って目覚めの日はある。リズムが乱れてたり(バイトに合わせて無理やり朝起きる日が続くと×)生理前でどうにもこうにも体がだるかったり…。それでも、1時間でも、心地よく過ごせたら、どんなに良いか。(中略)辛い日を凌げば、また明るい日は来る。何をしても、しなくても、明日は来る。いい意味で。だったら少しでも、楽に、気楽に、また元気な日が来るのを待てば良いのだ。……」

 

 


今週に入ってから、少し体調が悪い。集中力が急激になくなって、何をするにもやる気が起きづらくなった。寝つきと目覚めが悪い上に、1日に12時間も眠る、傍から見れば怠惰な生活を送っている。これらの症状はつまり、生理前の1週間に差し掛かった、ということであるのだろう。


しかしそんな散々な日を、最近はうまく「過ごし凌げる」ようになってきているのだ。それもまた、本の効果が大きい。


本に没入する間に、日々は刻々と過ぎていく。合間に家事や散歩を挟めばなおさらだ。

 

目覚めの悪い朝、しかしなんとか布団から抜け出して、その足でちょっと部屋を片付けてみたりする。その手で読みかけの本を開いて、ちょっと読んでみたりする。集中力が落ちているから、本もそんなに長々とは読めないけど、顔を上げたタイミングで、気合を入れてスーパーに出かけたりする。外に出て、新鮮な空気を吸えば、自然と肩の力が抜けて、頭にかかっていたモヤが少し晴れたりする。そうやって徐々に行動を起こしていくうちに、知らず知らず環境からいい刺激を受けて、心身が楽になっていたりする。本は、行動を起こすまでの、いい繋ぎになる。本を読むこと自体は、静の動作ではあるけれど、動の動作を誘発したり、その動の刺激をより鮮烈なものにしたりして、本は、案外私たちに具体的な刺激として現れる。

 

大事なことは、調子の悪い日でも、まず最低1時間は気合を入れて、掃除をするなり、煮物かスープを作っておくなりして、その後の1日を1時間でも心地よく過ごせるように、まず準備をしておくことだ。極めつけにアロマを焚いて、間接照明を灯して、リラックスできる最高の環境を作ってから、そこでゆっくり休むのが良い。本も、そういう環境でこそ、満足して読める。

 

 

 

 


【今日作った料理】


さつまいもと豚肉の甘炒め。お砂糖たっぷり。ちょっと醤油を垂らし入れて、お肉には少し塩コショウをかけて炒めた。


舞茸と国産手揚げ風油揚げの、炊き込みご飯。お酒、味醂、多め。醤油少し、本つゆひと回し。舞茸は、フライパンで炒めてから炊飯器に入れること。勇佑、大喜びで、欲張ってお茶碗二杯も食べたら、お腹が苦しくてなかなか眠れなかったみたい。(さつまいもも大喜びでバクバク食べてたし)


玉ねぎ、舞茸、さつまいも、キャベツ、豆腐の、具たくさんお味噌汁。

 

 

【昨日作った料理】


レモンハーブウィンナーとジャガイモ、ほうれん草のバーベキュー炒め。チーズトッピング。食材は全て一口大に切って、飛騨の清見ソースをたっぷり絡めてじっくり炒める。清見ソースは野菜の甘み、旨みがたっぷりで、ジャンキーだけど後味の良い、食べ応えのある味。


(スーパーで買った割引のお惣菜、サワラの竜田揚げが美味しくて、それと白米で他2食はすました。)

 

 

 

昨日彼は、友達の家で、友達の髪を切ってあげていたみたい。(相変わらず、仲の良い2人で微笑ましい)その時に、幸せを感じる瞬間は何か聞かれて、「落ち込んでいる時に食べる、彼女の手料理」と答えたのだと、大好きな炊き込みご飯を一口食べるとニヤリとしながら、私に教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

備忘録 母の話

 

 

 

 


そういえば、庭文庫という、岐阜の山奥にある古本屋と宿と出版社を営む古民家に、母と行き、買い物をした際だったか、私が、「この人にお金を払いたいって思った場所で、買い物をするんだ。」と母に話したら、母は、しばらく沈黙した後、「そんなこと考えたこともなかった。」と目を丸くして私に言ったのだった。

 

 

 

母と私は、趣味だったり、1人の女の子としての雰囲気は似ていたが、もし仮に母と私がクラスメイトだったとしても、決して友達になれるような関係ではなかった。母はほんとうに純な天然ちゃんという感じで、明るくて底なしに前向きだったけれど、わたしにははっきりと陰があったから。母は、そんな複雑な私を、何度も理解しようと考えてくれていたみたいだけれど、それはとても困難なことだったように思う。私と母は、特に最後は長く一緒に過ごしたけれど、一緒にいればいるほど、悲しいほどに違った。

 


私はそうやって、エネルギッシュな母から学ぶことばかりだったけれど、ごく稀に、私から母に、なにか学びのようなものを与えることもあった。本当に稀だが。そういう時はもちろん、私は得意げな気持ちになったのだった。

 


私がこうやって、日々のあれこれを赤裸々に記して、ブログとしてネットにあげるのは、私が私らしく生きていることを、知って欲しいから。でも、誰に?有名になりたいわけじゃない。だからたくさんの人に知ってほしいわけじゃない。

 


もしかしたら1番知ってほしいのは、母になんじゃないかと思う。

 


私と母は違う。母が思う幸せに、私はなれない。私は、母のようには生きられない。母と比べて体力も足りないし、圧倒的に私は精神的に弱くて、繊細すぎる。でも、私なりに、幸せでありたい。母に、たくさんの愛情を込めて育ててもらったからには、絶対に幸せになってみせたい。それこそが、わたしにできる最大の親孝行だ。それしかもう、天国にいる母にはしてあげることはない。シンプルでわかりやすくていい。

 

 


私は、自分らしく、幸せに生きたい。