自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

デート記念日/本屋さんと図書館に感謝

 

 


2024年 11月17日 深夜0時46分

 


 2024年11月15日の金曜日は、私たちカップルにとって記念の日となった。

 観葉植物購入記念日である。私の人生に、ついに観葉植物が加わった。25年目の、新メンバーである。これからよろしくな!

 

 あぁ、素敵すぎる!

 こんな生活がしたいと夢見ていた生活を、今していると思った。これからしていくんだと思った。観葉植物を抱えて、街を歩きながらそう思った。だって、観葉植物のある部屋だよ?おしゃれすぎる。

 

 愚痴も多いし、仕事はたいしたことができなくて、家族に世話をかけているけど、今回はそれはおいておいて!

 絵を描いて、本を読んで、よく寝る。それで、考えたこと、成果物、発信したことに、最近は特に友達が反応してくれて、あたたかい声をもらえたりもする!

 


 15日。大好きな彼氏とカフェでお茶をして、例の観葉植物を購入…なんと、お揃いの波佐見焼のマグカップも新しく購入!

 …幸せすぎる。お金もいつもよりたくさんつかってしまったわけだけど、こんな日があってもいいよね。というか、こんな日があるんだ!わー!素敵すぎる。主に、彼氏がこんなに買い物に乗り気なデートが、激レアなのだ。彼氏がかなり楽しんでおり、嬉しかった。幸せすぎて、途中から冷や汗かいてた。

 

 この日は朝一番にバスに乗って、雨上がりの植物園を散歩したのだ。絵の資料用の撮影が目的で。カフェはその後のことである。贅沢な1日であった。そのうえ帰宅し、おニューの観葉植物ちゃんの置き場確保のために必要になったアイテムを買い足しに、もう一度出かけた。腹ごしらえにお店でラーメンを食べてから、夜に無印良品にまで行った。すごい、濃い1日。28,000歩、歩いた。最高記録かもしれない。


 1人で歩く植物園も楽しいけど、彼氏と歩けば嬉しさ2倍よ。私たちは付き合って5、6年ほど経つというのに、いつまで経ってもバカみたいなラブラブカップルだよ。すれ違う大人も(子供ですら)きっと心の中でうんざり呆れているだろう。ごめんなさい。主に私のせいなのですが。私はずっと大人っぽく過ごせなくて、植物園でだって笑顔が止まらなくて、わーとかきゃーとか、いちいちオーバーリアクアション。お喋りも止まらなくて、フラフラ歩いて、彼氏がいると周りにあまり気を配れなくなって、ヘラヘラしてる。以前は彼にしつこく叱られてたけど、2年も一緒に暮らしたからね、彼ももう諦めたらしい。黙って付き合ってくださいます。

 

 

 

 今日、16日は、予定より早く目が覚めてしまった。

 2万歩以上歩いた次の日は、流石に体が凝っている。その影響でか、まずその晩の寝つきもそんなに良くないし、(布団の中で体をジタバタとさせ、寝ようか寝まいかと何度も思案して、ようやく寝る)そうだ、次の日いつもより早く目が覚めてしまう傾向にあるように思う。

 体が凝っていて、眠れていないとまでくると、当然頭もぼーっとする。私は8時間(からもしかしたら9時間)は睡眠が必要なタイプで、今日は睡眠負債や睡眠貯蓄も加味した私の計算からしてちょうど2時間分、早く目が覚めてしまった。頭がかなり重かった。でも空腹が気になって二度寝ができなくて、諦めて布団から出て朝ごはんを食べた。それから机に向かってなんとなく形だけはいつも通り読み書きをしたり、写真を選別したりしたら、気分転換にいつもより早めに図書館に出かけた。

 

 75%ほどの集中力で、2時間ほど図書館で読書。読んだ本は、ちくまプリマー新書の「未来形の読書術」。哲学的な要素もあり、頭の中で整理のしがいがある、興味深い内容であったから、その場でノートにまとめたりもしたかったけど、頭の重さが晴れずじまいで、今日はやめた。

 それで早めに図書館を出て、スーパーで食材を買って帰宅し、即席のちくわと白菜入りの焼きそばを作って、食べて、布団にくるまって、寝た。昼寝である。爆睡であった。ちょうど足りなかった2時間分、寝たら、目が覚めた。陽はすっかり落ちていた。

 

 

 最近、SNSに疲れている。と言っても、やっているのはInstagramくらいなのだが。そのInstagramの、ストーリー投稿の頻度について。

 

 ストーリーの機能を、喜んで使い始めたのはつい最近のことだ。24時間で消えてしまうことの有用性をやっと理解し、その上で、閲覧者が結構多いというところがミソだ、サクッとあげて、みんなにもサクッと見てもらって、「リアルタイムを共有」し次へというサイクルの速さ、消費のされ方は、ハマってしまうと疲れが知らないうちに溜まっているような気がする。


 そもそも、あげたい写真や自分語りが、結構溜まってしまっているのが原因だ。それが最近の悩み。なんて贅沢な悩みなんだと、呆れる。

 あれもこれも、みんなに見せたい!知ってほしい。自慢したい…?本のこと、新しく買ったアイテムのこと、秋の写真、手帳のお気に入りのページ、最近思ったこと、勉強して得た気づき…、これって全部、自慢したいってことなのかな?それだったらなんて卑しいのだ!と、ふと思ったけど、ちょっと違う。

 ストーリーはもっとカジュアルで、消費されていい、たいしたことないけど聞いてほしい!で、さらっとみんなに聞いてもらえる感じ。ただ、その欲望のままに連投したりして、厚かましく感じられたくないし、承認欲求お化けのネット依存者だと思われたくない…(なりたくない!)から、抑えているのだけど、その抑えている間に、また投稿したい話題が溜まってしまうのです。もどかしさは募る一方なのです。


 わー、もうやだ。そう言いつつさっきあげた、今読んでいる本の紹介と、植物園で撮影した良き写真のストーリー投稿について、誰か反応してくれたかなと、つい再びアプリを開いてしまいそうになる自分が嫌だ。それも悩み。一度投稿したら、素敵に投稿できたかなとか、誰か反応してくれたかなとか、何度も見返したくなって、我慢したって頭にちらついて鬱陶しい。こんなの依存症だー!と頭を抱える。自分で自分が嫌になる。

 

 だから、サクッとは欲求を満たせない、文章を書くことに没頭して、気を紛らわしているってわけ。

 それに文章は、サクッとも読めないわけで、その一手間かかる、面倒な壁を乗り越えてきた屈強な読者と、やっと繋がれる…その少々厳かな人との距離感がちょうどいい。


 絵もそうだ。絵も、サクッとは描けないから、遅効性のある承認欲求の満たされ方で、落ち着く。


 ストーリーは写真と、一言から成る簡単な文章で投稿が完了する。写真は、iPhoneで撮ってそのままあげちゃってくださいねという規格で、難しい編集も説明も不要。数秒のインパクト重視。あらゆるお手軽さが、悪魔的だ。悪魔的な、承認欲求満たし装置。


 SNS以外に、趣味の合う人間と最近の成果物を持ち寄って、語り合うような場があればいいのに、と最近よく思う。とは言っても私はシャイというか、人の集まりがとても苦手なので、それがあったとしてもうまく活用できるかどうか…自信は全くない。

 ただ、今は自分の表現の場であり人と繋がる場がSNSInstagram)一辺倒になりすぎているのが、気持ち悪い。なんだか、自己満足がすぎると思う。SNSInstagram、特にストーリーのお手軽さ、簡単に発信できすぎることの、危うさ。内容の質が上がらないまま、自分の承認欲求は細切れに満たされて、成長の機会が奪われている気がする。何か良くない欲求が、ハイスピードで空虚に肥大し、現実は誇張され、短命な創作人生になる予感がする。


 かといって極端にスマホを持たない!SNSをしない!なんてわけにはいかなくて、難しい時代だなと思う。

 流行に乗らず、最新情報を全く得ないのは退行の行為であるとすら思う。日々の多くの事柄が、自己管理能力に委ねられすぎているように思う。道具を使う、それだけのことから、各々の能力、知性、感性に、委ねられすぎていて、スマホを、ネットを、どこまで有効活用できるかの、人による振れ幅が大きすぎる、とかなんとか、思ったことを書いて、途中で思考の整理学とか読みつつ、3時ごろ寝た。

 

 

 

 

 

 

2024年 11月20日 水曜日

 


 今日はとんでもなく寒い日。

 気温は、6度から9度…10度以下!突然の冬。

 でも今日だけみたい。

 (昨日も寒かった!6度から13度。冬物のもこもこジャンバーを羽織って、福田平八郎を見に美術館に出かけたよ。一昨日から寒くなったよなー、明日は和らいで9度から16度の予報。)


 今朝は10時半にスッキリ起きて、彼氏が深夜に作り置きしてくれたカレーライスを食べて、11時から図書館に出かけた。

 紅葉が、とっても綺麗だった。赤色は、一層鮮やかに、真紅に染まって、黄色も曇天に、自ら発光するように鮮やかに浮かび上がっていた。茶色のバリエーションの多さよ…。少し余白の多くなった梢に、様々な色合いの枯葉たちが、マダラに重なり合って、細かいマーブルの粒模様が空に描かれる。紅葉も、枯葉たちも、本当に複雑な色合いで、形も個性的で、見惚れたよ。


 14時半まで図書館で、昨日見た福田平八郎の他の作品も見たくて、画集を開いたり、あと美術鑑賞のアドバイスについて、いい本があったので、その辺りの本を中心に、熱心に読んで、15時から友達とのビデオ通話の予定があったので急いで帰った。

 高校の友達!話をするのは、今日が初めてくらい…!縁があり、こうやって25歳になって、改めて近況報告や、ちょっと深い、精神の話とか、孤独の話とか、できてよかったよ。とにかく、生きてて偉い!だよ。


 30分、羽毛布団にくるまって、昼寝(夕寝?)をして、遅くまでやっている図書館へ出かけた。

 YAコーナーで、「死にたいと思ったことがあるあなたへ」とか、そういう本、いろいろ熱心に読み漁った。


 図書館の、暖かくて、和やかで、安心できる雰囲気が、そういう本を読むのに心地よくて、いつもつい熱中して読んでしまう。私が10代の時に、ゆっくり向き合えなかった問題、自己流で、なんとか誤魔化して過ごしてきたけど、欠けたままここまできてしまった問題たちを、今やっと「私らしさ」のようなものを掴んで、落ち着いてきたところで、猛烈に勉強し直している。


 他に、本屋さんについての図鑑も今日読んで面白かった本。2時間、120%の集中力でした。昼寝は偉大なり。今日は合計5時間は勉強に費やせて、嬉しい。ドーパミン出てるよ。

 本を、今日こうやって真剣に読んだ、その時間で十分得るものはあったと思うけど、もう一手間かけて、こうやって文字に起こして、いつかこんなふうに自由に図書館に行けなくて、仕事に忙殺されて、最低限の生活をこなすのに手一杯の、余裕のなくなる時が来た時のために、記録を残しておく。


 東京には、素敵な本屋さんがいくつもあり、その本屋さんに来る人がいて、経営している人も素敵で、私もお店に足を運べばその素敵な輪にすぐに入れちゃうのが、とても嬉しい。本屋の店主さんは私にとっての有名人。

 図書館も、素敵。今、3件ハシゴしてる。それぞれ、部屋の雰囲気、本のテイスト、開閉館時間など違うから、その時の気分でうまく活用する日々。


 絵を描くときに、絵が下手な時こそ、いい道具を使いなさいとよく言われた。下手な時こそ、いい筆を使いなさい。パレットにある絵の具の色数は、とにかくたくさんあったほうがいい!

 絵の具の色数については特に、その通りだと、しっくりきた。私は元々、色を塗るのが苦手だったから。自分の中にある、色数の引き出しが少なかった。だからパレットに80色くらい出して、一枚の絵でそのパレットの全色を使いこなす勢いで描く。絵の具の種類の多さに自分の色感を助けてもらうのだ。それから上達して、少ない色数の中でも混色をして、自分の思う多彩な色を作れるようになる。


 本や勉強についても、まだあまり知識がない時にこそ、いい本屋さん、いい図書館が近くにあるってことは、ものすごい伸び代だと思う。実際、かなり助けられている。泣きそうになるくらい、本屋さんと図書館に感謝感激してる日々。

 本屋さんが好きだ。街にある、本屋さんのこと。個人で経営されてる、小さな本屋さんのこと。すごく信頼してる。

 この本屋さんにおいてあるんだから、きっと良い本に違いないと、自信満々に購入する。本屋さんが、まず一回、この本いいですよと絞ってくれて、そこから私がこれだ!という1冊を、やっと、選ぶのである。共同作業である。選書にかかる労力を、本屋さんに半分以上担ってもらっている。ありがたし。

 図書館についてもそうだ。お気に入りの図書館があって、この図書館にあるのだから、良い本に違いないと、躊躇いなくかぶりついて読んでいる。最近は特に、ここ以上にいい図書館なんてない!と、信頼しきって、貪るように端から読んでいる。東京に住めてよかったとつくづく思う瞬間の、第一位である。(東京の、それこそ文化の巨塔みたいなところだからね。)

 

 本は、右も左もわからないものに対しては特に、その物量が、暴力にすら感じるほどの莫大さ。逃げ出したくなるくらいの、知の軍勢。無言だから、こっちから触らない限り、危害を加えられたりはしないのだけど。無言だから、触りたくてもどこから触ったらいいのかわからない。仲良くなりたいのに、本は無愛想。だから装丁とか、親切な人の手の入った本屋さんや図書館に、助けてもらってる。

 

 それにしても、世の中には知らない分野が多い。分野を変えて、一日中本を読んで過ごせる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先輩」に会いたい/疲れ果てた日の実態

 


2024年 11月4日


 昨晩、高校時代にハマっていたソシャゲを彼氏にそそのかされてものすごく久々に開いたら、夢中になってプレイした高校時代が思い出されるわ、こんな単調で受動的すぎるゲームにあんなに熱中して…と呆れるやら、なんだか恥ずかしくなった。(※キャラやストーリーが魅力的ではあったんだよ。)

 

 ゲームで暇つぶしや息抜きをするのでなく、本を読んだり、何かのイベントや講演会に足を運んで、尊敬できる大人をこの世の中から探し出して、この社会に縁、自分のこれからの居場所をどんどん作って、高校時代の余暇をもしも過ごせていたならば、鬱屈とした思春期、内に篭りすぎて答えの出ない悩みに苛まれた青春時代というものを、あんなに長いこと引きずらずに、もっと軽やかに終わらせることができただろうにと、25歳になった自分はお節介に思って、本当に自分のためになるものとは何かとは、高校生風情にはわからないものだよなと、なんだかすごく悔しくなった。


 電子書籍を読み流しながらも、そういう面白い大人、尊敬できる大人にどうやったら出会えるのだろうか(25歳にもなるがコロナ禍の影響かつ個人的な諸事情で社会経験に乏しく、人と出会った場数というのが極端に少ないのであった。)というようなことをつらつらと考えていた。目の前には自前のPCがあって、ここで「上手に」検索さえかけられれば、いくらでも巡り会えるはずなのに、私は何をノロノロとしているのだろうと思った。

 (…そう思うと、この前浜松の友達に、素敵なお店やそこで働く大人たちを紹介していただけたのは本当にありがたかった。あのあとウェブ検索をかけて色々と関連情報を仕入れることができたし、知りたいと思っていた写真の世界について少し触れられたのも嬉しかった。この少し触れられるという入り口の経験は大きくて、この経験を起点にいくらでも宇宙は膨らんでいくから。)

 それで、そうやっていつもよりぼんやりと思考を遠くにやって物思いに耽っていたら、ふと、「ウェブマガジン」とか調べてみたらどうかと思いついて、まとめサイトから気になったものをいくつか拾い上げてみた。


 milieuという塩谷舞さんが個人で運営している(いた)ウェブマガジン。塩谷さんが書いた文章、自身で取材を行ったインタビュー記事とか、エッセイとか、写真とか、色々載ってて、それらは全部自分で編集してみんなが見れる形にしてる…一連を個人でやってる、そういうサイト。

 サイトの色合いとか、写真の雰囲気とか、余白の感じとか、話題の選択も、全体が好みで、もちろん文章も良くて、これいいなーと思ってじっくり読ませていただいた。

 それに!私のちょうど10歳年上ということで!「出た!10歳年上の人!」と興奮して、興味津々に読ませていただいた。

 

 私が東京に来て楽しく生活できているのは、大好きな彼氏が一緒にいてくれるおかげと、あとバイト先で出会える「10歳年上のベンチャー企業で働くキャリアウーマンたち」の存在が大きい。(※ほんとにベンチャー企業なのか、キャリアウーマンって表現は合っているのか、諸々定義をよくわかっていないのであくまで主観的な見解で、敬愛を込めて勝手にそう呼ばせていただいてます!と注釈つけておきます。)

 年上じゃなくても、同い年のスッゲー仕事ができる理知的な雰囲気の社員さんのことも大好きで、(←たまにしか会えない上に数回しか話したことないくせに私が一方的に慕っている。憧れ。)あと同じアルバイトの先輩と後輩も信頼できるし尊敬できるしでね、もうね、みなさん、仕事もできる上に優しくて繊細でセンスが良くて、この人たちと関わってたい!と思うからいられる。


 10歳年上の人に出会える機会なんて、私の地元(めっちゃ山奥)では滅多にない。もう少し歳を取ったら増えるのかな?出会えたとしてもほんと一握り…多様性なし。

 それもあって新鮮で、その上、この(10歳年上の方々と私との)10年間にある、ラグ…ジェネレーションギャップって、結構あるのよ。激しいってわけではないけど、生々しくて、おもろい。

 今回塩谷さんのサイトも見て思ったことは、インターネットへの眼差し、捉えかた、使い方、意気込みって、もしかしたらちょっと違うのかもしれないってこと。

 例えば、10歳年上の方々の方が、使いこなすぞ!というポジティブで能動的な印象を受ける。私たちは、もっと受動的で、インターネット(主にSNS)の使い方が、ダサいやつにはなりなくないなーという消極的な意気込みな気がする。


 そういうジェネレーションギャップを見つけることは、この社会というものを、一層クリアに見渡せる重要なきっかけになるんだと、今回塩谷舞さんの存在を知って、さらに強く思ったわけだ。「先輩」との関わりは、「社会サバイバル能力」の向上に直接的に響く、大きな経験値の獲得を感じる、とか思ったわけだ。


 つらつらと思ったことを拙い言葉でここまで書き殴ってしまった。(もしもバイト先の社員さんに読まれたらどうしよう、恥ずかしすぎる、てかクビになったらどうしようってブログ投稿する度に思うよ。)


 あと、働くということへの、意気込みについて。10歳年上の人はさらにその10歳年上の人のことを見据えている。そこにプラス実際に、私よりまず10年間サバイブした経験がある…!まじ、要するに先輩は先輩なのよ。偉大なのよ、ということ。

 とにかく、先輩から学び取れることの多さよ!そしてあわよくば、そういう尊敬できる先輩に囲まれた職場、業界に身を置いて、どんどん自分が成長していけたらいいのにな…というようなことをね、今回、熱く、語りたいのでした。

 でもこれって向こう(先輩)からすると、鬱陶しい眼差しなのかもしれないと思うのでこっそりここに書くだけにするよ。誰も彼も、すでに成功しているわけではなく、まだ悩んでる最中の方も多いだろうしね。

 自分も10年後そういう目で20代の子に見られてると思ったら恐ろしいしね…

 

 

 

 

 

 

遡って

 

 


2024年 11月3日 晴れ 

 

 

 昨日と打って変わって、晴れ。雲ひとつない晴れ。

 

 11月3日文化の日。晴れの特異日というらしい。

 

 毎年文化の日は全国的に晴れるみたい。なぜか。確かに去年も晴れていた気がする。去年のこの日は立川へ、東京蚤の市へ遊びに行った気がする。

 彼氏も連れて行った。お天気も良くて、売ってるものはみんな素敵だったけど、会場は混雑の極みで、人人人人人人、見渡す限り人、見渡せないくらいぎゅうぎゅうに人、人で出来た大河、その大河に否応なしに流されたし私も大河の一部だった屈辱。…大変だった思い出である。

 早朝の気温は15度くらいで、春秋用のパジャマを収納ケースから出してはいたものの、タンス臭くて着られないと床に放置して、しばらく長袖インナーのみで過ごしていたけどそろそろ限界か。肌寒くて、起きた。背中が出ちゃってたみたい。嫌な目覚め。

 


 私はまた昨晩暴動を起こしかけた。

 

 昨日はちょっとした縁があって、日雇いバイトでイベントの手伝いに朝から出かけていた。曇天、雨の降ったり止んだりする薄暗くて肌寒い中、たっぷり半日、屋外のテントで過ごした。

 16時から本格的に雨が降り始めてお開きへ。最後の駅から自宅までの道のりで土砂降りに遭って、ずぶ濡れになって帰宅した。幸いだったのは、長靴を履いていたこと。今日は本当に、長靴を履いて行って正解だった。濡れた足元で一日を過ごした場合の体力消耗を想像すると恐ろしい。

 労働の割に比較的穏やかに、帰宅後速やかに湯船に浸かり、残り物を食べ、休養の姿勢に入ることができた。靴擦れ防止に靴下を二重履きしたのも大変良かった。冷え防止に繋がって一石二鳥だった。

 


 私はあまりにも外でニコニコとしすぎる。人に気を遣うことが、適当にできる人と、過剰すぎる人とでは、大違いである。

 しかも私は、気を遣うと言っても、気が利くわけではあまりない。だから褒められたもんじゃない。

 私の気遣いは、自己防衛のためにある。気を遣っているというより、気を張っていると言ったほうが正しい。


 私は周囲の人に対して、私が良い人であるということを誇張するために気を遣う。そうしないといられない。

 よく働き、(それが、良い働きをしているという意味にはならないのが悲しい。精一杯働いてる、誠心誠意やっている、そういう積極性を見せて空気を悪くしないように努めている。)場が盛り上がるような言葉や行動を選んで進んで声をかけたりもする。そうしたくてやってる。(…特にこの日は、初めて会うような人との、日雇いのバイトだったし…)…そうしないと居心地が悪くて人と一緒に1日も過ごせないから。

 そうやって過剰に気を張って昨日は過ごして、仕事は楽しかったし、やりがいも感じたし、高揚して、やり切ったー!という気持ちで帰ってきたけど、1人になって、少し時間が経って、どっと疲れが出ると反動でおかしくなる。

 疲れすぎて、暴力が振るいたいような気持ちになる。具体的に説明すると、体にある力を制御できなくなる。適切な声量で話すこと、適切な速度で動くこと、適切な握力で握ること、適切な表情でいること、そういう普段の一挙一動に苦労するようになる。そんなこと無意識にできていたことが、気に障って、できなくなる。

 ポジティブに言えば、カラオケに行って、めちゃくちゃ大声で歌って、リズムに合わせて体をぶんぶん動かして、大爆笑して、飲酒して、ぎゃーっと叫んで、うわー!っと泣いて、そう、大暴れしたい!!という気持ちになる。

 素直にそうすれば気持ちは晴れるものなのだろうか。

 でもそんなことして社会的にも自分のプライド的にも許されたはバブル期までだったよな、と妄想する。

 


 そういう疲れが、一晩寝て取れれば良いのだけど、取れない。

 今朝、肌寒さで起きて、無理やり起こされた状態だから目覚めは悪いはずなのに、目はガン開きで、薄笑いが止まらなくて、まず表情筋のコントロールに失敗。隣で寝ている彼氏を虐待のような力で抱きしめたりお尻を迷惑に叩いたりして、力のコントロールに失敗。言葉も冷静に話せない。

 仕方がないから、布団から出て、その謎のエネルギーの発散先として皿洗いと部屋の掃除と洗濯と朝食作りと、といった一連の家事を同時並行かつ爆速でこなして、目ガン開きの薄笑いのまま、朝食の小松菜とベーコンと卵のあっさり焼きうどんを食べたら紅茶を入れて、新しく買った詩集を読んだ。詩は、ちゃんと刺さった。やっぱり芸術は頭のおかしい社会不適合者への魂の救済のために、存在しているのだ。なくてはならないのだ。と感動した。


 仮眠をとって出勤した。洗濯、めっちゃたくさんあって大変だったけどイヤホンで爆音流して聞いてやってやった。普段、神経過敏だからイヤホンの音量はかなり小さめに聴いてるけど、その反動でちょっとした自傷行為という感覚もあり、めっちゃ、最高の気分だった。


 出勤中、前をノロノロ歩いて道を塞ぐカップルのことを蹴り飛ばしてやろうかと思った。そのカップルのせいで青信号をひとつ見送ることになった時は、男と女のどちらに暴行を加える方がよりその後の自分の身が安全だろうかとクリアに想像して諦めてやった。死んだ顔で電車に乗った。マックで割り込んできた表情のおかしいチー牛っていうんだろうな、メガネの若い世間知らずそうな男のこと、その場で怒鳴り散らかして叱ってやろうかと思った。子どもがぐずって親に泣き縋りながら喚き歩く声が耳に触って、持っていたペンを投げ捨てて折ってやろうかと思った。


 こうやって淡々と、自分の見たものや感じたものを、そのまま、見たままに感じたままに書き殴っている間に、時間も経ったからだろう、気持ちは落ち着いてきた。暴走して、何もかも癇に障っていたような感覚が、文字に起こすことで、なんだか取るに足らないような、些細なことに思えてきた。どうでもいい過去のことになった、ということだろう。

 

 

 私は過剰に、良い人であろうと思いすぎているのだろう。イライラしたくない。人の前ではなるべく、人が不快になるような表情や態度でいたくない。優しくて、穏やかで、建設的で、できるだけ人を癒すような存在でありたい。

 でも自分の能力がそれを達成できるほどよく出来ていない。

 

 学生の頃は特に、プライドが高いと、評価されることがよくあった。私はずっと、理想が高い。夢見がちな女なのだ。美しいとか、正しいとか、人のためになるとか、そういうポジティブな価値の、より重要に評価されやすいものが好きだ。

 それが私の俗っぽさでもある。例えば高学歴というものが、純粋にすごく魅力的だと思う。あと、芸術が好きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

なんかすごい人になりたいんだよ!という憧憬と焦燥 /遠藤周作「深い河」ほぼ読了/本の世界の住民になりたい

 


2024年10月26日

 


 ここ数日の自分は、朝起きてまず、何か美味しいものが食べたいなぁと、妄想ばかりしていることに気づいた。

 

 どこかで外食しちゃおうかなと、思いつく近所のお店にこの後出かける妄想を始めて、どのメニューを頼むかまで鮮明に思い浮かべて、食事を終えてお会計をする時に冷や汗をかくところまで想像して、諦める。

 それから、あの時食べたあれ美味しかったなぁ〜と、また食べたいなぁ〜と、味を思い出してうっとりする。

 (原因は多分、帰省の締めに超絶スペシャル激うまスパイシーカレーを食べたから。スパイスに病みつきになってるってワケ。)

 


 お金があったらなぁ。

 いやいや、自分が贅沢すぎて嫌になる。

 YouTubeで毎日3食卵かけご飯を食べるのを何年も続けている人とか、食事は完全食の液体がメインで6年たった人とか(病人ではない)、目に入ると、そういう選択肢だってあるんだし、もうちょっと私もストイックにならないかんのかなーとか、変に感化されたりして、なんか違う気もするけど、とりあえずこの前BASE  FOODの完全食の菓子パン4種16個入りセット(3900円くらいだったかな)を取り寄せてみた。で、2つばかり食べたわけだけど、これが…美味しいとは…いえない味でね。無味ならまだしも、なんか絶妙にまずい味がして。うん、まずいんや。ただ結構お金かけちゃったから頑張って食べ切ろうとは思うけどさー。

 いい失敗経験になったよ。

 


 昨日も図書館で、閉館前の2時間弱を過ごした。

 最初はおすすめの小説まとめとか、児童文学ベストセラーまとめとか、総記コーナーをザッと読んでいたけど、最終的に文化人類学系の、子供の貧困にまつわるような本を2冊ほど熱心に読んでしまっていたので、それもあって、いちいち美味しいものが食べたいとか、外食がしたいとか言ってる自分が嫌になる。贅沢病だこんなの。

 ただ、東京の狭いアパートに住んでいると、どうしても息抜きにお金を使いたくなるもので、美味しいもの(といっても選択肢はチェーン店ばかりなのだけどね)食べたり、新しい本買ったりしないと、やってられないというか、家にこもってたら寂しいんだよね、刺激が足りなくて、窮屈で、パーっと解放されたい気持ちになる。(と、バイトが立て込んでいると特に思う。ストレスが溜まっているとこうなる。追記しているバイトが落ち着いた11月になってからは、発散欲は凪いでいる。)

 


 あー、また夏の個展前とか、去年の冬みたいにストイックに、朝起きたらまずコーヒー牛乳で空腹を凌ぎながら絵を描きはじめて、2時間くらい粘ったら生卵と納豆を溶いたレンチンうどんを啜って、ちょっと休んだらまた3時間ほど絵を描いて、夕方スーパーで安くなってるお惣菜を買ったり、最低限の野菜や肉を買って自炊したりして、満腹になったら休みがてらDSして、寝る前にもう少し絵を描くか本を読む、みたいな清貧勤勉な生活がしたい。したい…というか、そういう生活してる方が精神的に罪悪感がなくて充実を感じるんだよなー。

 


 と、不味いBASE FOODを齧りながらお気に入りのバジルティー(この前浜松でお友達に頂いたのだ。超お気に入り。)を飲んで、こうやって文章を書いているうちにある程度贅沢したい気持ちはおさまってきた。

 というか、こうやって創作活動をしたならば、ご褒美として外食くらいしたっていいじゃないか!たった1,000円前後の外食を贅沢!と後ろ指差すこともないだろう!という気持ちが芽生えてきて、いや、そもそも、ものすごく空腹になれば、卵かけご飯もレンチンうどんもご馳走なんだよなぁ…(追記:というわけで、結局この後レンチンうどんを啜ったのでした。)「美味しいものを食べたい!」の、美味しいもの、のハードルが今ぐんぐん下がってきているところ。だいぶ真剣な空腹になってきたというわけ。

 


 しかし、最近私は又吉さんにハマっているので、よく芸人さんの話す貧乏な下積み時代と比較すると、私なんて大した苦労もせず夢をゆるゆるとみて、死ぬほど努力もせず楽に過ごしすぎなのかなと恥ずかしく思ったりもして、もっと極貧生活をして、臥薪嘗胆!という気合で生きねばカッコ悪いのかな、というか人に舐められるんじゃないか、とか思ったりして、それで、一応こうやって空腹を今度はインスタントコーヒーと牛乳で凌ぎながら夢中で文章を書いたりしているのだけど、この文章にどんな意味があるかはわからなくて、お金には到底ならなさそうだし、この文章の積み重ねで大成する気もしないし、結局朝起きた妄想のままパーっと外食しちゃって、お金使っちゃったことに焦って一生懸命働いて、またパーっと外食するような、一般的な、なんというか資本主義経済?に従順な生活のほうが、本当は合っているのかな?とか思ったり、思わなかったり。

 


 そう、こんなふうにあれこれおしゃべりが止まらないのは、今、自分が何になりたいか、どう生きたいのか、というのが曖昧で、かといって迷子であるわけではなくて、ある程度、興味のある分野やできること/できないことは絞られているから、フラフラはしていないのだけど、その興味のある分野でもって、どのくらいの高みにまでいきたいのか、(高みを目指すことが自然に浮かぶの、変なのかもしれない。)というのが漠然としているのだ。

 抽象的に、なんかすごい人にはなりたいんだよ。でもそのすごい人になるために、どのくらいのリスクは背負っても良くて、どのくらいの苦汁を啜ったっていいのかという覚悟の問題が、曖昧である。

 (というか、本当にすごい人というのは、リスクをリスクと気付かぬうちにしれっと乗り越えられちゃってるような人だから、躊躇しちゃってる時点で私はそこまでなんだよなぁ…)

 

 とりあえず現状を整理すると、絵は、自分にとってひとつ特技としてあって、その上で今、本を読むのにすごくハマっていて、特に小説が熱くて、数日前から遠藤周作さんの「深い河」を読み進めているのだけど、もうめっちゃ面白くて、面白いというか、新しい知性や感性、感覚の扉を開いている。開眼しているのだ。メキメキと、自分の中に今までなかったけど、欲していたような、欲、知識欲なのかな、思考が一段階クリアになって、急激に満たされていく感じ。

 猛スピードで読んでいたからもうすぐ読み終わってしまうのだけど、この快感をもっと味わいたくて、また図書館で10冊くらい本を借りてきて、バーっと回し読んでいる。内訳はいつも、小説が2、3冊と、エッセイが2、3冊と、図鑑とかレシピ本、ハウツー本のようなビジュアルで楽しめるような本を数冊、という感じで、ここ最近の読書事情を書くと、常に30冊くらいの本を手元に、というか意識下に置いて、気になった順に好きなだけ読む感じで、きっちり読破する本は多分月に5、6冊くらいなんだけど、面白い本、自分が求めてる本に出会うために手当たり次第にざっとページをめくった本が、その読破した1冊に対して10倍くらいの量がある感じ。

 


 そうやって何十冊も意識下に置いて、色々な気づきを結びつけて、さらに新しい刺激を求めて、その気づきの結びつきのネットワーク(宇宙)を成長拡大させてみたいという好奇心のままに手当たり次第本を読み漁る、その行為が自分にとって何になるのか、なんの役に立つのかはわからないし、その知識欲が満たされる感じ、物事をみたり触れたりする感覚がクリアになっていく感じが、ただの娯楽的な位置付けでしかなかったとしても、とりあえずこういう本という世界、文字で魅せるような世界の住民に私もなりたい!(しかもこの世界めっちゃ栄えているのだ!人口も多ければ歴史も深い上に、現実社会においてちゃんと重要な位置付けをされている安泰の世界なのだ)という気持ちは揺るぎなくあって、且つその世界でただ享受者として生きるだけでなく、生産者、言葉の使い手でもありたいと憧れる気持ち、それは小説家になりたいとか、エッセイストになりたいとか、出版社で働きたいとか本屋さんになりたいとか、そういう具体的なものでは全くなくて、私も文字というものを使いこなしてみたいという好奇心。

 


 とりあえず思いつくままにここまで書いて、結構な時間が経過してしまった。いよいよ空腹で頭痛までしてきたので一旦ここまでとする。

 

 

 

 それから、やっぱりまた図書館に行って、閉館まで本を読んだ。

 


 ほとんど、読書中毒。面白い本に出会えるように足を動かしてないと、勿体無いような気がする日々。

 絵も描いたっていいけど、この読書熱で私はどこまで行くのか、試したい気持ち。

 やりたいこと、思いついたことに自然と身を任せる。今日までも結局そうやってきてるんだよなぁ。

 

 


 図書館を出て帰路へ

 


 今日は彼氏の帰りが遅くなるみたいで、だからこのまま真っ直ぐ家に帰ってしまっても多分寂しいというか、長い夜になりそうなので、どこかで時間を潰して帰ろうと思った。

 お財布のことを考えるなら、スーパーに寄って野菜と肉を買って自炊するのがいいかなと思ったけど、多分今日の私はそうすると「なんで私はこんなに頑張っているのだろう。誰か認めろ!私は偉いだろう!褒めろ!労われ!評価されたい!(もちろん素晴らしいね、とね)」と、多分これが孤独というやつ、寂しくて、張り合いがなくて、ひとりで悔しくなって泣くような予感がしたから、足の赴くままに進んだら、いつもの珈琲館の前まで来たので、ここで一休みすることにした。

 


 土曜日の夕方で、きっと友達がいたり家族がいたり、お金に余裕があるような人々はディナーに出かけているのだろう。珈琲館の店内は空いていて、単身で何か作業をするような人々がひっそりといるだけで、すでに心地いい感じ。

 私はピザトースト(580円)とレモンスカッシュ(600円)を頼んだ。喉が渇いていた。

 この前ユニクロで買った(ちょうど気温がグッと下がった劇的な季節の変わり目という日に、バイト先に薄着で来てしまって、寒さに耐えられず、臨時で休憩をいただいて近くのユニクロに走って緊急で買ったのだ)白いトレーナーを着ていたのだけど、そのトレーナーが絶妙に暖かくて、これがいい感じに暑すぎはしないのだけど、ちょうど眠たくなるような暖かさで(実は図書館でも最後の方は欠伸ばかりしていた)それで喉も乾いていたし、なんだふわふわしていた。多分それは寝起きに空腹を我慢して文章を書いて、結局レンチン納豆生卵うどんを啜って、間髪入れずに図書館で2時間弱本を読んだ、なんというか、疲労。脳の疲れがあったのだと思う。

 


 遠慮なく、どっかりとソファーにもたれかかって、ややぐったりと、カウンターの向こう側に見えるキッチンを眺めた。

 よく手入れされた、銀色の調理器具たち。壁もきちんと磨かれている。誰かが頼んだであろうパスタを、ぐつぐつと茹でる大きな鍋から昇る湯気。茹で上がったパスタが熱されたフライパンに移って、ジュージューと蒸気を上げながら食材たちと絡んで乾いていく音。ソースのいい香り。

 自分のためにご馳走を用意してくれる人がいて、それを無防備に待てる。その時間の、幸福さよ…。あー、これだ。私が求めていたものがここにある。労い。思いやり。これが私の欲していた愛。お金を介した関係だとしても、見えた。あのキッチンの向こうに、母親という概念が。

 


 ほとんど放心状態で店内の家具を意味もなく眺めたり、時計の針を眺めたり、外の様子を眺めたりした。お店の出入り口の扉は開け放たれていて、それが私にとっては好印象だった。闇に沈んでいく街が見えた。車のヘッドライト、自転車のライトがチラチラと夜を照らした。人の往来、子どもの姿。

 扉を開け放つセンス、ほんと好きだなぁ…気が合う。私はエアコンがあまり好きではないから。できる限り自然の温度に任せたいよね。

 

 

 つづく

 

 

 

 

 

又吉直樹さんにハマった話

 

 

 

2024年10月19日(土)

 

 昨晩、23時少し前、東京のアパートに帰宅。

 一昨日、山に登った筋肉痛と、昨日その疲れの溜まった体で高速バスに4時間ちょっと揺られた疲労で、今日は偏頭痛と軽い目眩があり、何かしたい気持ちは十分にあったのだけど、結局大人しく家で養生することにした。


 朝は7時前に目が覚めて、実家のリズム継続中という感じ。ゆっくりトイレに座ってスッキリしたら、シャワーを浴びて、歯磨きをし、よし!と気合を入れて荷解きと部屋の整頓を始めた。最後にテーブルの埃を拭き取る頃には、とにかくお腹が空いた!という感じで、家にあるもので済ませようかなと思ったけど、お財布に余裕もあったし、バイト出勤前の彼を誘って珈琲館でモーニングすることに決めた。

 午前9時。雲の切れ間から覗く太陽の日差しが思った以上に強く、結構あつい。

 彼の大学での最近の出来事や人間関係についての愚痴などを聴きながら、ホットドック、サラダ、アイスコーヒーをいただいた。750円。美味しかった。


 どうやら天気が予報に反して良さげだったので、帰り道にスーパーで食材の買い物をして帰宅したらすぐに洗濯を回した。メインは彼氏のインナー6日分なのだけど…。

 昨晩、彼氏に6日ぶりに再開したら遂に、「しほがいないとダメなんだ僕」とか言い始めてた。

 彼はこの前までダイエットに勤しんでおり、食生活にかなり気をつけていたみたいだったけど、私がいなくなったらそれもすぐに崩れてしまったらしい。寂しくて、生活に張り合いがなく、またネットショッピングをする際に、私に「いいんじゃない?」とゴーサインを出してもらえないと購入する決断ができない自分に気付いたとのこと。

 など聞いて、「私が帰ってきて嬉しいね。明日からしたいことは?」と彼に尋ねたら、「制作。」とのこと…。美大生よ。私がいてやっと最低限の生活を送れるとのことで、昨日まで下限突破してたんだね、などとお互いの近況を報告し合いながら寝落ちした昨夜であった。


 話は変わって、最近私がハマっていることが、お笑い芸人であり小説家である又吉直樹さんのトークを流し聞くことで、今日も洗濯を干しながらきいた。又吉直樹の【渦】というYouTubeチャンネルがおすすめ。やっぱ、芸人さんやからちゃんと笑わせてきておもろいし、趣味の話とか、文学の話とか、夢を叶えるために苦労や努力をした経験談はタメになるし、話すテンポが心地よい。又吉さんの人間的な魅力にどんどん惹かれていって、なんかいいなぁと穏やかな気持ちで耳を傾けてしまう。

 10日前からハマってて、きっかけは私が宮沢賢治の作品の朗読をYouTubeで聴き漁っていたらおすすめで、又吉さんの【渦】弱った時こそ宮沢賢治宮沢賢治のヤバすぎる言葉の威力!ウンタラカンタラ〜というようなものが出てきたこと。試聴してみて、その1本の動画が私に見事にグサッと刺さったわけだ。

 又吉さんの、又吉さんを大人にしてくれた100の名言・迷言とのことだったのだけど、又吉さんがその名言が刺さった瞬間のエピソードをひとつひとつ話すたびに、ありありと情景が目に浮かんでくるので、お話が上手いことや、又吉さんの感受性とか体験の経験値の高さに気付かされて、こいツァ凄いぞ…と直感的にビビッときたわけである。

 進んでいろいろ聞くようになって、今日時点での私の又吉さんへのイメージで特に強いのが、高校のサッカー部で1年の時ひとり(又吉さん)だけマジすぎて周囲から浮いていたというバカ真面目(ストイック)で熱い奴っていうのと、お姉ちゃんやお母さんが優しくて、家族に応援してもらえたから大成できたよっていうようなこと。この2つは多分、自分に重なる部分が少しあるから心に残っているのだと思う。


 今日はこうやって又吉さんのことが書きたくてPCを開いたのだ。あと、付属して(又吉さんに影響されて)自分も自分の経験からくる現在の自分のポリシーみたいなものを書き留めておきたいなと思って。今回の帰省で感じたことや考えたことも影響してる。ちょっと振り返りつつ話を進める。


 …と、ここまで書いて昨晩は活動を終えたのだった。書き始めたのが昼寝から起きてゴロゴロし飽きた17時半ごろで、19時半に冷蔵庫にあったしなびた白菜と、豆腐と、買ってきたえのきを鍋にぶち込んで、醤油、みりん、出汁つゆ、コンソメで煮込んで、豚肉を投入し、最後にマルちゃん正麺のちびまる子の絵のついた生麺(これが美味しくて我らカップルの間で毎年冬に大好評なのだ)を煮込んだら、鍋風ラーメン(ラーメン風鍋?)の出来上がり。それをYouTubeを見ながら(にじさんじ感謝祭が生放送でちょうどやってた)食べて、バイトから帰宅しシャワーから上がってきた彼氏にも食べさせて、ロフトでモンハンを通信し3つくらい狩をこなして、その後なぜかYouTubeで1999年から令和までのヒットソングまとめを1時間もかけて2人で視聴したのだった。

 (追記:最近、岩波新書長田弘さんの「なつかしい時間」という本を読み進めていて、そこに、最近(1998年執筆の文だったかな※追記:1996年執筆でした。6ページから9ページの「大切な風景」という項。)の歌謡曲では風景が歌われなくなった〜心情ばかりを歌う〜(※私のうろ覚え大雑把解釈)というような提言があって、なるほどなぁと思っていたから、そういう観点でも聴いてみた。

 確かに2000年になりたての頃はなんか激しい、俺とかあんたとかあたしとか好きとか嫌いとか馬鹿とかそういう曲かなと思った。しかし思うに、平成も終わりに向かう頃になると、また風景を心情描写に上手に用いるような、風景を歌う歌が好まれるようになっていったように感覚的に思う。なんか、あいみょんさんのマリーゴールドとか?米津玄師さんとか藤井風さんとかはそういうイメージ。ごめん、テキトー言ってるわ。あまり音楽には詳しくないのだけど、ちゃんと調べたら面白そうな分野であるからまた関連図書などあれば読みたい。)

 2006年あたりの楽曲がキラキラしてて、私たちカップルの物心もしっかりついていた年齢で記憶にあり、盛り上がった。2011年以降の楽曲のチョイスは正直イマイチで、前半と比べてかなり雑な編集だったのが残念だった。とはいえその頃はCDからデータ(?)への移行の時代であったと思うし、同時に水面下でボカロが隆盛を極めはじめていた時であり、自分たちカップルも実際にボカロだったりアニソンだったりゲームの音楽だったりマイナーなバンドだったり、ほとんど世間の音楽シーンとは別の、ネットで各々の関心のある音楽を自発的に聴きあさっていた時期だったので、うP主がスカスカな編集になってしまったのもわかる。多分うちらより年齢が上の人なんやなと思う。時代的に既にその頃の若者は歌番組とかメディアの広告を抜きに音楽を選び聴いていた時期だったので、(すみません、素人がテキトー言うてます。)CDの売り上げでの比較も難しくなったと思うし、ヒットとか流行りとかの基準が立てづらくなったんやと思う。などと、その後も思い思いに自分たちの思春期を飾った音楽たちをYouTubeで聞き漁り、懐古しながら0時ごろまでダラダラ過ごしたのでした。


 翌朝7時にまた目が覚めて、寝ぼけた頭のままつい深夜の流れでYouTubeをひらいてしまい、気になったニュースを見たりしてぼーっと1時間ほど過ごしてしまった。水中考古学の話で、福島県の桧原宿の調査について。130年前の火山噴火の影響で水没してしまった村とのこと。ダラダラし飽きて、ロフトから降り、歯磨きをしたり食事をしたままのテーブルを片付け、仕方ないからのんびりお皿洗いなどをし、すっきりした流れでコーヒーを淹れて、日記の続きを書いた。もうすぐ10時。今日はバイトの日、そろそろ出勤せねば。まだ体が凝ってる影響かで弱い頭痛がする。長い1日になりそうだ…。あ〜温泉行きて〜。


 そういえばポリシー書こうと思ってたのだけど、また今度にします。いや、一言でいうと、「人は皆、全力で生きている」と、思えば、人にも自分にも優しくなれて、ハッピーだぜ。

てことデス。

またいつか。

 

 

 

 

乏しい読書履歴/上橋菜穂子さん「物語ること、生きること」読了!

 

 

 

2024年10月9日

 


 今月は特に、バイトを余分に入れすぎたと思う。

 まあ、細かいお金の勘定については置いておいて、来週一週間実家に帰るというのに、その準備をするチャンスが今日か、明後日の金曜日(出発前日)しかないのが、何とも余裕がない感じで、なぜこんなに忙しくしているのだろうと何となく不満に思ったわけだ。

 まあ、大した仕事をしているわけじゃないから、仕事から帰った夜にでも準備をすればいいじゃないかと言われれば、そうなのだけど。いや、そうじゃないんだよなー。やっつけ仕事にはしたくなくて、じっくりやりたいのだ、自分の作家活動については。


 今日やったことは、出店用の商品や用具を含む荷物(100サイズ段ボールにいっぱいだった)の準備から発送までと、衣類の洗濯。今日も今日とて雨だったから、徒歩5分ちょっとのコインランドリーにて洗濯乾燥機を利用。

 このコインランドリーについてだが、確か3日ぶり、今回で2度目の利用である。9月の終わり頃から、頻繁に雨が降り、気温も急激に下がり、バイトとの兼ね合いも悪く、休日の洗濯がうまくいかなくなった。

 住んでいるアパート備え付けの共同の洗濯機、乾燥機の清潔さは以前から気になっていたし、住民と使用するタイミングがかぶることも多々あって厄介で、少し歩くがコインランドリーを利用してみようと、3日前の夜に彼と意気投合して、深夜11時ごろに、生乾きの大量の衣類を二人で抱えて出かけたのだった。


 それで、今日は洗濯まで無事完了し、来週の準備や段取りを終えて、洗濯乾燥機の待ち時間に一旦家に戻って進めておいた夕飯の親子丼作りを18時ごろ再開して、煮込みながら部屋を片付けて、完成した親子丼を一人で食らって、彼氏が大学でMacにダウンロードしておいてくれた映画「スギメ(3万年前の航海 徹底再現プロジェクト)」をみた。面白かった。


 満足して、20時に図書館へ行って、閉館まで過ごした。初めて児童図書のコーナーに立ち入った。全体をざっとみて、気になったいくつかを立ち読みし、数冊借りて帰宅。なかなかに有意義な時間だった。また子供達のいない時間に利用したい。

 職業についての図鑑にボカロPとかあって、進化してるなぁと。てか、ラノベがたくさんおいてあってびっくり。嬉しい。ラノベ、中学生の時ハマってたから。小説や図鑑、その他諸々、読みたい本ばかり。読みたいというか、今、読んでおかねば、という焦燥感のようなものがある。なるべく早く出会っておかねば、という何か。


 児童書を見ると、小学生の頃は本をけっこう読んでいたということに気づく。The本好きな子供よりは断然読んでいないけど、それでも見回すと、あれもこれもシリーズごとに夢中になって読破した思い出がある。かいけつゾロリも、わかったさんこまったさんシリーズも。レインボーマジックシリーズ、フェアリーレルムが大好きだった。あんびるやすこさんとか!超懐かしい!大好きだった。青い鳥文庫〜!若おかみは小学生、黒魔女さんが通る、読んでたわぁ〜…。

 中学生になって、唯一ラノベ(あと何故かお菓子作りの本。作るわけじゃないけどデザインや写真、文章と写真の塩梅が好きでよく眺めてた。)は夢中になって読んだけど、それ以外の普通の(?)小説やその他諸々の本、つまり大人向けになっていくような活字たち、ほとんど読まなかった。

 高校生の時なんかは、その頃世間で話題になっていた小説を実際どのくらい面白いのかと試しに読む(お笑い芸人の又吉直樹さんの火花、恩田陸さんの蜜蜂と遠雷など)というのが1年に1冊あったかなというくらいで、ほんと、片手で足りるくらいしか読んでいないと思う。

 なぜって、学校生活をこなすことに手一杯で、毎日はあっという間に過ぎ去り、本を読む余裕がなかった。いや、気晴らしの娯楽が十分にあったのが原因か。ソシャゲもコツコツやってたし、スプラトゥーンとかやってたなー。

 あと、本は、何だか馬鹿にされているような?気がして、読みたくなかったのだと思う。学校の勉強よりも大切なことが書いてあるんだよ、という雰囲気が癪だった。その、多少蔑ろにしたって構わないような学校生活とか人間関係とかに、私が精一杯で、どうしても人からの評価とか、普通さとか真面目さのようなものにすがりたがる打算的な自分に気付かされる、向き合わされるのが嫌だった。のかなと、振り返って今の感覚で推測してみる。

 小説の、世の中にいる、人間の生活を俯瞰して描かれるような感じも、何だか自分がちっぽけな感じがして、むかついた。小説家の手のひらの上に乗るみたいなさ、?、人の人生なんか知るか!っていう、ガキだなー、そういう気分だった。

 とにかく、学校の勉強に手一杯な自分を、たぶらかす、気持ちを変に揺さぶられる、リズムを乱されるような毒のような感じがして、本を読むことはほとんどあえて避けていたまである。振り返ってそう思う。


 そういえば、新書、評論は好きで、冊数は少ないものの能動的に読んでいたことを思い出した。

 あ、そうだ、でも、高校入学したての頃に、先生に何を読んでるのかと表紙を覗かれた時、ちょうど哲学のなんかすげー難しそうな本を読んでしまっていて、え、そういう系を好んで読むんですね(引き)というリアクションをされたのが恥ずかしすぎて、難しい本を読むのも痛いかもなと思って気が進まなくなったのだった。印象に残っている新書は孤独死の実態で、何の変哲もない静観な住宅街?団地?で、何ヶ月も前に亡くなった遺体が見つかって云々…異臭に気づくとか気づかないとか云々…というもので、確かそのほかにも貧困とか発展途上国が抱える問題とか、弱者についての本を選んで読んでいた気がする。あまり覚えていないから人生を変えるほどには刺さらなかったのだろうなと想像する。ほんとこれも多分片手で数えられる程度の冊数しか読んでないだろうが…。

 

 


2024年10月11日

 


 午前10時45分ごろに目が覚めて、それほど目覚めは良くなかったけど布団でダラダラするのが嫌で、ふらふらとロフトを降りてブラインドを採光モードにしてぼーっとする。


 今日はやっといいお天気の日で、勿体無いから洗濯がしたくて、体が起きてくれるのを床で緩く体操座りをしながらしばらく待ったら行動を開始した。

 本当は起き抜けにそのまま机に向かって黙々と絵とか描き始めたっていいなという気分だったけど、明日から一週間家を空けるし、今日に限っては大人しく家事に専念した方がいいよなと。

 完全に夏は終わって、秋が来たと思ったら急に肌寒さばかり感じる気温になってしまったけど、今日みたいに陽が照っていると日向は汗ばむくらいで、洗濯を干し終えたらいい感じに体が温まって、納豆卵かけご飯も食べたし、悪くない体調に気分も良き。

 お皿洗いとトイレ掃除は今日の絶対の任務で、ちょっと億劫だったから一旦読みかけの本を開いたり部屋をうろうろしたりしたけど、コーヒーまで飲んでしまったらえい!っと勢いで始めた。トイレ掃除の流れで浴槽もピカピカにして、お皿も洗ってスッキリ。任務完了したのが14時20分くらい。そのあと明後日の出店で使う釣り銭が心配になってお金おろしたりで外うろうろして、15時30分くらい。時間も丁度良いくらいになったところで今日も今日とて国際子ども図書館へ向かう。


 休日毎に国際子ども図書館に通い詰めて読み進めていた、上橋菜穂子さんのエッセイ「物語ること、生きること」を読み終えて、大満足。

 上橋さんのオーストラリアでのフィールドワークの苦労を思うと、何だかものすごくありがたく、深々と感謝してあの素晴らしい物語たちを読まねばと感じる。作家と研究者の二足のわらじを履いたからこそ生まれる、引き込まれるリアリティに溢れたファンタジー…。

 幼少期から大学生活までの作家上橋菜穂子さんを形成した様々な経験、そこにある上橋さんの探究心、向上心、情熱、上橋さんを育てた家族、友人、土地の縁、たくさんの魅力に圧倒される。など、思いついたことを追記…。

 閉館までの残りの数分で次に読みたい本のあたりをつけて帰路へ。まだまだ読みたい本ばかりだ。通い詰めるぞ。何だか、充実。充実そのものを感じる。すごく心地がいい。今一番お気に入りの私の居場所、それは国際子ども図書館の中高生向けの資料室…。

 外に出るといい感じの夕暮れで、風景の全体が薄明るいパステルカラーの黄色から桃色、水色に染まっていて、ところどころが濃いコーラルレッドの夕日色に燃えている。

 本当は科学博物館に寄る予定だったけど、金曜日だから18時閉館だと思って向かったら17時に閉まってた。

 だから諦めて、人の流れに身を任せて駅の方まで降りて行き、ヨドバシでカメラのSDカード買っておくことにした。

 でも、ちょうどいい支払い方法を持ち合わせていなかったから(現金不携帯なもので)、大学が17時に終わり、こちらに向かっているという何ともタイミングのいい彼氏に助けてもらうことにした。

 ちょっと奮発して前回より性能の良いSDカードに決めて、購入。それから日没後の薄闇をはらぺこの状態で歩いて、ようやくたどり着いたファミレスで彼氏とちょっと贅沢な晩御飯を食べた。私はステーキ丼とサラダを注文。(良きチョイス。かなり美味しかった。)彼氏の愚痴とか聞いて、乗っかって自分の愚痴(意見)とか言い合って、しょうもないことでヘラヘラ笑って、なんか楽しくなって、最後の晩餐(明日から一週間別々だから)とか言って、締めにデザートのミニパフェまで食べて満足して帰宅。


 家に着いて洗濯物を取り込んで、明日の荷物を整頓したら本を読んだ。あと、ネイルもした。明日、明後日の予定がいろいろ楽しみでニヤケが止まらない。しばらく本を読んだら足が冷えたので数ヶ月ぶりに浴槽にお湯を張って入浴。


…と、1日の流れをつらつらと書き込んだけど、本当に書きたいことは、上野菜穂子さんのエッセイがどのように面白かったかとか、ネイルが自分のあまりの大雑把さに酷い出来になったけど、それでも可愛いこととか、明日浜松で初めて高校の友達と遊ぶのが楽しみで仕方ないこととか、お風呂が暖かくて気持ちよかったこととか、ファミレス美味しかったこととか、あと、前回の日記について、読書の意義、小説を読むことの面白さを深掘りしたい(昨日バイト中に思いついたのだ)ことだとか、あと映画スギメのもっと詳しい感想とか、…本当はいろいろあるのだけど、それらを書き起こす際に使うエネルギーが、けっこう膨大に必要な感じがして、ちょっと躊躇ってる。というか、最近あまり頭を使いたくないのだ。今も、しゃべるようにして思いついた順番に打ち込んでる感じで、去年とか、もっとものすごく頭を使って、丁寧に描いてた、あの情熱、すごかったよなぁ…とか思うくらい。まあ、読み直して簡単に付け加えられる部分は加えたりしたら、結局そこそこ書きたい感じにはなったけど。これらの文章が、もしかしたら何かに使えるかもとか思ったり、思ってなかったり。書くならものにしたいという欲が、あるような、ないような。最近、デジタルの日記(手帳の日記はコツコツみっちり書いている)を書くことについて中途半端な気分。


 小説を読むことについてだが、前回、学生の頃は本が読めなかった、人間を俯瞰して描くような小説のことが癪にさわるだとか、普通の学校生活を送ることにすら手一杯な自分を本は馬鹿にしてるような感覚がするだとか書いたけど、なぜそんなふうに小説を煩わしく、自分をたぶらかす悪のように思ったか考えた時に、逆に、今小説が面白いなと思うようになったのは、自分が不真面目になったからだなと気づく。学校も、人間関係も、必死になって模範通りの理想に向かって真面目にいたって、どうにもならないこと、どうしようもなくうまくいかないことの方が多くて、本気になりすぎないほうがいいのだ、と思うようになったので、ひっくり返って小説とか読むのがちょうど良くなった。小説とか読んで、この複雑で思い通りになんて到底ならない人間社会を飄々と、面白く、生きた方がいいよなと。

 

 

 

 

 

 

読書の秋へ

 


2024年9月29日


 福岡から帰ってきたら、彼氏の様子が変わった。

 本格的にダイエットを始めた。食事の記録をつけて、摂取カロリーを数字で確認し、調整している。

 8月の、あの布団が巣の、生気のない軟体生物(もしくは重力への抵抗を最も軽減させるために背中を地につけ生活することに心を決めた新人類)だった彼氏から一変して、そう、カラッと表情が変わった、何やら前向きに生活している模様。

 

 

 一方、私はというと

 

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メモ的日記:9月27日(金)くもり雨


国際子ども図書館

たねの図鑑

高校生と考える、シリーズ

上橋菜穂子さん「物語ること、生きること」(精霊の守り人の方!どうしたらこんなに素敵な物語が書けるのか、という読者の問いについに答える形となった、自伝的エッセイ。)


 12時半ごろに起きて、机に向かう。

 コーヒーを切らしていたので、紅茶を飲みながら、先日往来堂書店さんで購入した本を眺める。

 眺めるというのは、集中して読めるほど頭が冴えていない。

 天気のせいだろうか。音楽など流しながら、ぼんやりと過ごす。

 生卵と納豆を混ぜたレンチンうどんを啜ったら、曇天の下、国際子ども図書館へ向かう。

 中高生向けの選書の部屋の素晴らしさ。早速夢中でページを捲る。

 まずは種子の図鑑。形、色、美しいたねたちにうっとり。

 それから、高校生と考える〇〇というシリーズ。様々な分野の、それぞれ第一線で活躍されている方々の、おそらく中高生に向けたある講演のまとめ。中高で大して本など読まず、世俗に紛れて惰性的に勉強をこなし、画面越しの娯楽に時間を溶かしいたずらに歳を重ねてしまった私のような大人にも鮮烈に刺さる内容。

 

◻︎

 

 

2024年9月29日

 

 

 やらなきゃいけないことがなくなった。

 

 やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、(それはほとんど自分で自分に課した呪いのような物事でしか無かったのだが)何にもやる気が起きなくて、だるくて、寝ている、という状態でなく、何もやることがなくて、自由だから、ぼんやりしている、最近の自分。

 

 本は読んでる。よく図書館にいく。もしかしたら、休みの日は毎回図書館に行っている。

 

 さくらももこさんのエッセイにハマった。

 吉本バナナさんのキッチンを一気に読みあげた。(物凄く良かった。これまでの人生で何度か読もうと思ったタイミングがあったにもかかわらず、有名であることがなんとなく気に障って読まず嫌いしていた自分を恨んだ。)

 

 今はトーベ・ヤンソンさんの「ムーミンパパ海へいく」を読んでいる。(追記:サイコーだった…夢中になって、没頭してこれもすぐ読みきってしまった。虜になって、すぐにもう一冊、彗星のお話も買って読んだ。そしたら物語中毒になり、没頭できる物語を欲して、子どもの頃ぶりに「獣の奏者」を手にして、ほぼ二徹で2巻まで読みきった。)

 

 島田潤一郎さんの「あしたから出版社」はやっぱり面白かった。彼の綴る言葉に触れると自然と本が読みたくなる。名作と呼ばれるものをもっと読んでみたいという思いで、図書館や本屋さんをうろうろとして、ムーミンシリーズはそんな自分の懐に元に舞い込むように、往来堂書店さんの店頭にあったのだった。

 幼少期または学生時代に良質な読書経験があるような人が羨ましい。雑誌を開いて目に飛び込む、有名作家や役者さんの自分を形成した読書体験などという記事を読んで指を咥える自分。

 別に小説家になりたいとか、エッセイストになりたいとか、そういう夢は全くないのだけど、自己表現の武器が言葉である人々が羨ましい。

 私の武器は、絵と、人と違った19〜23歳くらいまでの生活の経験。受験を挫折したこと、長年の精神的な問題、精神的な不調に伴う肉体の不調との戦いの日々、母の看取り、上京。

 この夏で、上京して丸2年が経った。3年目が始まった。今の自分のことは、あまり特別だと思わない。私は、変だった。家を飛び出すようにして、彼氏だけを頼りに東京で生活する女。私は変で、普通じゃない。普通になりたくて涙が出た。去年までは。変な生活も、3年目になったら普通の生活になった。変なのが普通なのだ。だからか、この状況から脱しなければという変な焦りがなくなって、よく眠るようになった。よく眠って、のんびり過ごすようになった。

 


 よく眠り、穏やかに日々を過ごせるようになったのは、将来の目処が立ったからかもしれない。

 彼氏のご実家に赴き、ご両親がとてもあたたかく、自然に、私たちを受け入れてくださったこと。彼氏が、私を連れて地元に戻って仕事をするビジョンをはっきりと持って勉学に励むようになったこと。

 彼の心が決まったことで、私は、あとは彼についていくだけとなった。それについて、あまりどうとは思わない。私は少し疲れているような気がする。個展で、今持てるものは全て出し切った感覚がある。そうしたら、何者かになろうという気持ちが薄れた。諦めがついた、ということなのだろうか。少し違う気がする。私が私であることを、真に受け入れられている。背伸びしていない。浮き足立っていない。力が適当に頭の先から手足の先まで行き渡って、満ちている感じがする。


 本当は、今日はあまり文章を書くことに乗り気ではない。ただ、物凄い早さでここまで書いたのは事実としてある。

 書きたいこと、書いて消化したい思い、書いて残したい経験は、山のようにあるが、誰かにも気持ちよく読んでもらえるような形で残そうという配慮までできない気持ちである。

 文章の構成、言葉遣い、何もかも気にすることなく、つらつらとここまで書き上げた。そんな文章に意味はあるのだろうか。多分、何事にも意味がないものなんてないのだろうけど、これまでの自分が、ごく自然と読み手を意識して、より正確に自分の心をうつそうと、心掛けていたあの真剣さ、地道さ、集中力が信じられない。物凄く体力があったような気がする、あの頃は、といっても少し前のことだが、ずいぶん時間が経ったような感覚がする。とにかく、楽しかった。文章を書くのが。書いて、誰かに読んでもらいたいと思っていた。誰かに読んでもらって、繋がりたいと思っていた。

 

 …誰とも繋がらなくていいような気がしてきた。

からなのだろうか。

 彼は私のことを本当によく理解しているし、理解した上で愛してくれている。

 きっと彼以上に私を理解してくれる人など今後の人生で現れないだろう。

 もし彼の代わりを求めるのなら長い年月をかけてお互いを理解する必要があり、この先長い年月をかけて付き合っていくような人間がどれだけいるか…

 

 



結婚計画第一行程〜福岡へ〜

 

 

2024年8月31日

 


 明日の早朝、福岡行きの格安航空に乗って、彼氏の実家へ遊びにいく。9月1日から10日までの、10日間の滞在になる。


 彼氏とは、半同棲して、3年目になる。付き合って、5、6年ほど経つ。

 いよいよ、結婚が現実的になってきた。というか、この旅で、結婚が現実的なものになりうるのか、挑戦するような感じ。ただ、お互いが、好きという気持ちだけで今までも、今も、いる。

 彼氏のご両親に会うシミュレーションをして、ホームシックになって、泣いている。今週は毎晩そうだった。不安で、寂しい。私という存在が、不確かになる感じがするのか、過去のことをたくさん思い出して、自分史をおさらいして、私とはこういう者ですと思い出して、強くあろうとしている。そうじゃなくても普段から、夜になるとあれこれ過去のことを思い出してしまっていたけど、より鮮明に思い出すような気がする。楽しかったこと、悔しかったこと、両親からもらった愛情、祖父母からもらった愛情、姉妹からもらった愛情を思い出して、涙が出る。

 福岡県は、遠すぎると思う。もっとお互い、近所に住むような相手だったらよかったのにと思うけど、遠くに住んでいる彼に、惹かれてしまったのだ。おかしいだろう、仕方ない、恋愛だ。

 彼氏のご両親は、すでに私のことを、あたたかく、自然に、受け入れてくれそうな感じだ。それが、嬉しくて、ありがたくて、でも怖くて、不安で、寂しくて、涙が出る。

 彼氏が羨ましい。帰る家があって、そこが自分もこれからひとりの大人として生計が立てられそうな土地であることが羨ましい。私の実家は、ちょっと山奥すぎる。いまどきの、普通の20代、30代として、暮らしていこうと思うと、限定された仕事から、仕方なく選ばなきゃいけない。それを良しと私は思えない。公務員か、介護福祉、保育医療系か、農業か、林業か、土建屋か、あとは車の修理屋さんとか、水道屋さんとか電気屋さんとか、みんな自営業。そして、人間関係はやっぱり閉塞的だ。変化が少なくて、日々はマンネリな感じ。だから、私は帰れない。

 東京にきて丸々2年経って、最近実家に帰ると、なんだか墓の上で死を待っているような感覚に陥ることがある。その日生きる分だけの費用さえ本当に最低限やりくりできれば、なんの刺激もなく、穏やかに歳を重ねて、死ぬことができる。その穏やかさに苦しくなる。

 今、時刻は0時27分。9月になった。

 台風10号の影響で、ここ数日雨ばかりだ。蒸し暑くて、梅雨に逆戻りしたような感じだ。外に出る際は、雨雲レーダーのチェックが欠かせない。赤い雷雨雲が、頻繁にやってくる。

 今週はそんな中、5日間もバイトに出かけたのだけど、朝外に出て、真夏の猛暑日ほどの焼けるような灼熱さがなくなったからといって、油断して10分も歩けば、身体中がじっとりと汗ばんで乾くことはなく、ちゃんと暑くて不快だ。道ゆく外国人観光客に、この湿気についてどう思っているのかと心の中で問う、さぞ苦しかろう。

 


2024年9月6日

 


 8月中旬に彼と共同で購入したMacBookにて日記を打ち込む。

 正直、全く使いこなせる気がしない。

 自作で本を作りたくて、AdobeIndesignが良さそうだというところまで調べて、習うより慣れろの精神で勢いよく購入を決断。

 今後のキャリア形成(?)のためにも、パソコンの知識や経験は必要だろう。PC代は分割払いで月3千円を2年間、Adobeも月々3千円で計6千円の毎月の出費。ちょっと痛い。バイト代で月約10万円稼いでいて、そのうち食費(+α消耗品生活費)が約5万円、通信費&電気水道代が3万円、毎月8万円はきっちり飛んでいく。そこにプラス6千円。いよいよ少しの油断も許されない状況になってきた。何とか頑張ろう。


 東京の自宅にWi-Fiがないので、9月1日から10日までの、彼の実家への付き添い滞在期間中に、ある程度触っておきたいと考えて、2日に早速Adobeの購入とPCの各種設定を触ってみたりした。

 3日は、MacWindowsとのキーボードの違いをYouTubeの解説動画を見ながら習得。 Mac、使いにくい。覚えるまで辛抱。

 その後は、ちょっとやる気が出なくてPCを触らなかったが、このままではいけないと今日はこうやって日記を打ち込むのに使ってみた。Indesignについては、3千円かけてハウツー本を購入して、PCの隣で開くも、全く頭に内容が入ってこない。


 彼氏の実家に遊びに来て、早くも5日が経った。ほとんど布団で寝て過ごしている。こんなにダラダラと過ごしたのはいつぶりか。彼氏のご両親は共働きで、朝早くにお出かけになり、18時ごろ二人揃って帰宅され、私たちの分も夕食を用意してくださり(追記:一切、私は(私たちカップルは)お手伝いをせず、食器すら洗わず、本当に全日程甘えて過ごしてしまった。彼は、甘えればいいの一点張りで、彼のせいにするわけでもないが、私は1人で手を出す勇気もなくて、のろのろと甘えて過ぎてしまった。)19時に家族揃って夕食を済ますと21時ごろまで居間で家族団欒し、先にご両親が就寝される。


 私と彼氏は、その後ダラダラとお互いにドラマを見たりゲームや読書をして、0時ごろ順番に風呂に入り、お互い眠くなった時に寝る。私はだいたい2時ごろに就寝。彼は、よく知らないけどほとんど昼夜逆転したような生活のようで、私が目を覚ます午前10時ごろに隣にやってきて爆睡しだす。私は日中、といっても午後の夕飯までの数時間を、一人で読書をしたりPCを触ったりして過ごす。せっかく福岡に来たけど、特に観光せずに滞在が終わりそうである…。(追記:彼主導の帰省だったので、彼の判断に任せたいと思っていた…彼が家でゆっくりしたいならそっとしておこうと…。しかし妹さんが助言してくださったのか、この後、妹さんやお父様に色々とドライブに連れて行ったいただいた。なんだか、申し訳ない…彼氏がだらしなくて申し訳ない…)彼氏と生活リズムが微妙に合わなくて出かけられそうにないのと、私自身も彼の実家の居心地がよく、とにかくWi-Fiがある環境がありがたい、本とデジタル機器をテーブルに並べ、庭の見える西南向きの窓辺で日差しと風の動き感じ、冷蔵庫から冷たい麦茶をいただき、ひとりで一軒家を(我が物顔で)堪能し、いくらでも時間が潰せるため、お尻に根が張っている。日曜日に佐賀の呼子に家族で行くのが唯一の観光になりそうである。大変楽しみである。イカのフルコースをご馳走していただく予定である。大大大感謝である。

 

 

 

2024年9月9日

 

 


 明日の夜の飛行機で東京に戻る。

 一昨日は、一人旅を決行し、ベイサイドプレイス博多から市営渡船で志賀島へ行き、レンタサイクルで島を一周した。(追記:最高だった!!海に船に、テンション爆上がりだったし、MTB乗るのなんて初めてだったけど、めっちゃ汗かいたけど、超爽快で!下り坂なんて特に!ひゃっほー!って1人で叫んだよ!)

  昨日は、彼氏のご家族のご好意で佐賀県呼子に連れて行っていただき、海中魚処萬坊でイカの活け造りや天ぷらをご馳走になった。(追記:すっっっげー美味かったー!)妹さん、遠くまで運転ありがとうございました!


 いよいよ旅の終盤、今日、明日はどう過ごそうかというところで、やはりお金もそんなにないし、自宅にWi-Fiがあるということで、今日は寝起きに本を読み朝食を摂るとパソコンをぽちぽち、Adobeチュートリアル動画を片っ端から観て勉強し、Xで藝祭の話題の作品をチェックしたり、今後のキャリア形成の構想を練ったりなどした。


 インプットした分だけ同時にアウトプットしないと気持ち悪い性格で、こうやってとりあえずキーボードを叩いてみる。


 今読んでいる本は、いろいろあるのだけど、やっぱり島田潤一郎さんの本が面白くて、ちくま文庫の「あしたから出版社」に夢中。

 島田さんの、挫折や、かなしみ、そして一途な情熱が、原動力となった文章、島田さんの生き様は、本当に魅力的で、母を看取った経験から、本の魅力にどっぷりと浸かっていった自分と重なる部分もあり、入り込んで読んでしまう。本を読む時に、情景がいかに鮮やかに浮かんでくるか、その世界にいかに没入できるか、というのが自分の本に対する評価基準であり本の魅力だ。

 

 と、ここまで書いて、お父様の運転で、家族でドライブ〜パン屋さんで明太フランスを買っていただき日田市へ〜また色々ご馳走になり、素敵な日田の景色を紹介していただいた。三隈川、青々としてて本当に綺麗だったなー。遠くに見える山も、空も、広くて、鮮やかで綺麗だった。ありがとうございました!

 

 日記はここまで。最終日も、夜の飛行機の時間まで博多でうまいもん食べて、(博多ラーメンからのもつ鍋というね、満喫です。)結局しっかり福岡観光できて、楽しく過ごせました〜〜〜