自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

母の一周忌を終えて

 

 


母がいなくなったことを、いつかもっと寂しく思うことがあるのだろうかと考える時がある。

 


それがもしも歳をとればとるほど寂しくなっていくものなら、どうしようかと思うことがある。

 

 

 

母の葬式が済んでから、母の着ていた下着とか、どうみてもお下がりで使わないような洋服はまとめて捨てた。

 


そのことをいつか猛烈に後悔する日が来たらどうしようかと、最近になってふと思ったりする。

 


(…そういう時は「きっと人間は、歳をとればとるほど未練がましくなっていくものだと私は思うから、母との思い出は早いうちに整理して正解なんだ」と思うことにしている。)

 

 

 

 

 

 

私はこの1年間、母が死ぬ間際まで使っていた、母のお気に入りだった毛布とパジャマで眠った。

 


母の使っていた目覚まし時計を鏡の前に置いて、毎日それで時間を確認している。

 


母がプレゼントしてくれた水色の水筒と、母からの最後の誕生日プレゼントの長財布を愛用している。

 


母と一緒に選んだ服を着て、母が買ってくれた靴を履いて出かけている。

 

 

 

今はそれだけで十分だけど、もしもそれだけじゃ足りなくなったらどうしようかと思う時がある。それらが古くなって壊れたり、身につけられなくなっても、もう母から受け取る新しいものは手に入らない。

 

 

 

 

 

 

私が東京に住んでいることを、母は知らない。これからも、母がそのことを知ることはない。

 


そのことが不思議で、ああこれが死んでしまうってことなんだと思ったことがある。

 

 

 

去年の夏に、新居の鍵を手に入れて、そのまま近くのカフェでお昼ご飯を食べた時、こんなに素敵なカフェのすぐ隣に引っ越したんだって母に伝えられないことが、信じられなくて、とてつもなく悲しくなって、涙を流しながらエスニックな味がするライスを頬張った。

 


火葬場で、母が骨だけになってもたいしたことなかったから、こんなものかって春の間は平気に思っていたけど、その夏のカフェで、私が母の死を実感するのはこれからなんだと予感がした。

 


4年も前から付き合っている彼と一緒の生活が始まって、何度も喧嘩したけどその度に仲が深まって、私も彼もすごく大人になったというのに、母にその物語を伝えられないのが残念でならない。

 


母は最期に、彼とうまくやっていくんだよと私に言うくらい私たちのことを心配していたけれど、今では母が飛び跳ねて喜ぶくらいうまくやっているし、きっとこれからもいい知らせができるというのに、肝心の母が、 1番に伝えたい相手であったはずの母が、この先どこにもいないことがとてつもなく悲しくて、涙を流しながら眠ったことが何度かある。

 

 

 

死んだ人は空から見守っているというけれど、それがなんだと思うことがある。例え母が空から私をみていて、母がそっちで満足していても、私は母に会って伝えたかった。

 

 

 

これから先、私はもっともっと幸せになっていくと思う。その度に、私はここにいない母を思い、寂しくなるだろう。また今の私なら母を安心させてあげられたのにと、世話を焼かせっぱなしだった幼かったあの頃の自分を情けなく思ったり、もう一度会えたらどんなに良いかと悲しくなったりするだろう。

 


母の知らない私は増えていく一方で、母との思い出はどんどん古くなる。その恐ろしさと私はこれから生きていくのかと思うと、ただただつらい。

 

 

 

…そういうことなら私は心の中で「お母さん、ありがとう。」と、ただひたすらに唱え続けることにしよう。幸せだった、楽しかった、最期に一緒に暮らせてよかった、ありがとう、ありがとう、と。

 


これから先、母との思い出が懐かしいものになっていくほどに、いっそう強く、ありがとうと唱えることにしよう。その時は空にいるとかいないとか、伝わるとか伝わらないとか関係なく、ただ静かに唱えることにしよう。優しく、力強く、私のために。寂しさに負けないために、私のために。

 


それからやっぱり、私の気持ちはどうであれ、母が空からみて満足してくれるのなら、それでいいとすることにしようと思う。