自分らしく生きたい

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葬式 在宅看護の話

 

 

深夜にお気に入りの詩集を読んでいたら、葬式をよんだ詩があった。

 

葬式の日の、ある春の、情景が浮かぶいい詩だった。あんなふうには書けないけど、わたしも葬式のこと、母のお葬式のことを、備忘録として書いておこうかと思う。

 

 

 

 

葬式

 

 

 


2022年4月29日 母の葬儀は執り行われた。

 

 


母の遺体は三日間、私たちの家にあった。

 


最初の日の夜は、私たち三姉妹で襖を跨いで、母の横たわる方へ頭をむけ、仏間と客間の間で川の字になって寝た。父も仏間の奥の壁の、母の隣で寝て、5人で過ごした。

 


次の日からは続々と親族が集まり、親しかった人も集まり、常に誰かが変わるがわる、母の隣に居座り、母との別れをすまして行った。

 


だから最初の日を除いた、後の2日間と葬式は、母はみんなのものになって、私たち家族が、本当に母と別れを告げたのは、川の字になって寝た最初の晩か、母が生きていた最後の晩までだった。

 


母が家を出る時も、葬儀も、火葬も、全部が仰々しくて、これはみんなのための式典なんだなって、私はそれらの行事を天から俯瞰して眺める気分だった。

 


涙はそんなに出なくって、母が焼かれた後も、式典の終わりに安堵し、窮屈な時間から解放された気持ちにすらなった。

 


母は突然死んだ訳ではなくて、私は母の体が、だんだん病におかされて、死んでいくのを見ていたから、今更ごうごうと泣こうとも思わなかったのかもしれない。

 


私は母がまだ生きているうちに、母のお尻の穴から、必要な薬を入れてあげていたけれど、母のお腹の中で悪さをするものは次第に大きくなっていって、ある日から、私はそれに行く手を阻まれて、薬を奥まで入れられなくなった。

 


私は母を殺した何かを、指先の感覚で、はっきりと触れさえしたのだ。

 


死が刻々と近づいていくほどに、母の冷たい足先は目も当てられないほどに青黒く変色していったし、チューブの出入り口であった腹の傷口からは、真っ黒なドロドロとしたものが、どうしようもなく溢れてきた。

 


訪問看護師さんは、毎日午後3時ごろに来てくれたけど、いつもそれまでの間は自分でなんとかするしかなかった。

 


異常が出た部分の写真を撮って、看護師さんにメッセージを送って、アドバイスを受けながら、自分なりに対処した。

 


傷口から溢れるドロドロは、こまめに拭き取るしかなかったし、次々と必要な医療品や介護用具は増えていった。看病の傍ら隙を見てそれらを新たに買いに出かけるのが大変だった。買い出しの後は、母が看病を待っているし、出掛けている間にできなかった家事に追われる。何より食事の時間が迫るのが厄介だった。同居する祖父母と、仕事から帰ってくる父と、私の、4人で食べる食事の用意も主に私が担当していた。

 


だんだんと、私の苦労話になってきたが、備忘録として書いておこうと思う。

 


とにかく、目まぐるしかった。母の死が刻々と近づくほどに、私は今までの私からは考えられないほど強く、母に何かしてあげたいと気持ちを駆り立てられ、忙しくしていた。私は、日常生活を送る傍ら、母の病気と向き合う、普通の世界と、病気の世界を行ったり来たりするような生活を送っていた。母に対して気持ちが強く傾いていたとしても、私が孤独になったり、心身を壊したりしなかったのは、同居する家族がそばで、よくもわるくもいつも通りの生活を送っていたからだと思う。

 


実際に、在宅看護は私という娘一人の力ではできなかった。父がいて、夜は一緒に母を看れたし、大学の春休みだった看護学生の妹も長く一緒にいられた、近くに住んでいて、困った時はいつでも駆けつけてくれる頼れる姉もいて、みんなで母を看病した。母はそのことについて、私は恵まれているのだ、幸せ者だと、最後まで感謝を口にした。父や姉妹が平日や昼間はいなくとも、常に家には同居する祖父母がいて、苦労はあったけど、私が寂しさや苦しさを感じる隙はなかった。

 


私は、母の要望で、母の寝る布団に上がって、痛がる背中を念入りにマッサージをしたり、冷えた手足をカイロで温めたり、お湯を運んで来て足湯をさせたり、濡れたタオルで熱のある頭を冷やしたりした。

 


服を着替えさせたり、お風呂に入れたり、シーツを変えたり、オムツを変えたりした。

 


洗濯をしたり、食事を作ったり、来客や看護師さんを迎えたり、買い物に行ったり、掃除をしたりした。

 


1日はあっという間に過ぎた。母が生きている、それだけで嬉しくて、母に何かしてあげられる、それは他の何よりも尊く、素晴らしいことだった。母のために忙しくすることが、私の使命で、わたしはその使命を心から全うした。

 


母は、最後の日曜日に、家族5人とありふれた休日を過ごした。姉が料理を作ってくれて、妹が率先して処置をしてくれたから、母は私と二人きりのいつもよりも、安心した様子で、ゆっくりと横になっているように見えた。私は母の寝るベットの隣の窓を拭いた。部屋を覗くと、父は母の手を握って話さず、長いこと隣に座り、時折ポタポタと涙を流しては、まだ目を開けてものを見ることができていた母に、じっと慰められるよう見つめられていた。

 


月曜日になって、再び私と母の二人きりの時間が戻った。母が寂しくないように、隣に座って過ごした。母の意識は明らかに、今までより朦朧とし、午後になると、目がもう何を捉えることもできない虚な状態になっていることがわかった、虚構を見つめ、言葉は返ってこず、呻き声を小さく上げるだけになった。

 


ああ、母はもう戻ってこないのだとわかっても、私は、母が呼吸をし、母の心臓が動いている限り、看病を続けようと決心していた。あと何日、あと何週間になるかわからないけれど、とにかく、やり遂げるのだと。しかし、母は思いの外あっさりと、いや、潔く、振り返らず、真っ直ぐに天国へといってしまった。

 


葬式の日、私が天から葬儀を眺める気分だったのは、行き場のなくなった私の決心が宙を漂って、あの目まぐるしかった日々はもう終わりなのだと、その喪失感に、解放感に、呆気に取られた気持ちだったからなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後

 

 

葬儀の後は、父を中心に、叔父さん、叔母さん、従姉妹たちも集まって、ちょうどゴールデンウィークだったし、なんだか毎日がお祭りのように賑わしくて、私はやっぱり全然、寂しくなかった。

 

むしろ楽しいくらいだった、毎日姉妹と従姉妹たちといられて嬉しかった、父をサポートしてくれる頼れる叔父さん叔母さんがいて安心できた、みんなが母の死を、私たち家族と同じように心から悲しんで、残された私たち家族のそばにいてくれて、嬉しかった。感謝してもしきれない。

 

みんなが私の誕生日のお祝いをしてくれた。私のこれまでの看病を讃えてくれた。

 

母が、幸せ者であったなら、やっぱり、母の娘である私も、幸せ者なのだった。