自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

ピル休薬期間の鬱

9月29日

 

 

 

久々に、キーボードを出してiPadに日記を書いてみる。先日彼とも話したけれど、八月は長かったけど九月は短かったような気がする。暑い暑いとばてていたら、なんだか過ごしやすい日がポツポツと出てきて、気持ちいいね、やっぱり秋がいいね、いや僕はもっと寒くなってほしい、早く冬が来てほしい(彼は冬が季節の中で1番好き)などと軽やかに話し合ったり、仕事に行ったり、休んだりしているうちに9月も末になった。

 


いや、よくよく振り返ってみたら、そうやって気候の和らぎとともに平和な丸1ヶ月がすごせていたわけでもなかった。特に今日は気分が落ち着いているし、ここ数日も楽しいことが多かったのでもう忘れていたが、ピルの休薬期間にひどいPMDD鬱が発症し、自責や焦燥感に苛まれていたのだった。鬱が落ち着いても今度は体が(今回は主に胃が。呼吸が浅く、息を吸うとえずいてしまったりした。)苦しい日が数日続いた。鬱の間、自分のこれまでの行いのどれもが失敗で、だから今の自分はひどくみっともない大人にもなりきれないダメな消えたって構わない人間で、こんな自分では将来もきっと不幸が待っている、あの人に言われた嫌な言葉、あの人に言ってしまった嫌な言葉、辛いことばかりが頭を埋め尽くす、そんな時間に苦しんだ。ちょうどその期間に彼が帰省中で不在で、私は狂ったように(いや実際狂っていたのだ)彼に連絡をして呆れられてしまい、絶望して涙を流して疲れて眠って、翌日猛反省して図書館にこもって熱心にセルフケアの本を読み漁ったりしたのだった。

 


面白い本を見つけた。酒井順子さんの男尊女子という本で、私は女性学の第一人者である上野千鶴子さんに続き、酒井順子さんのファンになった。酒井順子さんについてはその鋭い発言にただ感化されるだけでなく、単純にエッセイが面白くて、つまり文章がうまくて、彼女の文筆家としての性格の魅力に夢中になって読み進めた。

 


西加奈子さんの夜が明けると、小川糸さんのライオンのおやつも同時に読み進めている。やはり、私は西加奈子さんの描く小説が大好きだと思った。ライオンのおやつも、大切に大切に読んでいる。小川糸さんの本は、母との思い出の本もあって、糸さんは私を優しい気持ちにさせてくれる作家さんだ。でも今日は西加奈子さんの本について。登場人物の歪んだ性格、そうならざるを得なかった特異な環境の描写、平凡ではない、もちろん私のみたことも経験もしたこともない描写が決してありえなくないと思える、この世界のどこかにはこうやって生きている人がいるのだろうと鮮烈に想像できてしまう「人間」のリアルな表現というのか、そういうのがものすごくうまいと思う。美しいだけでないむしろ気持ち悪い彼らの生き様こそが妙に気になって、のめり込んで読んでしまう。

 


今朝は大人二人の何日か分の洗濯を回して干して、それからは昨日掃除・整頓済みのすっきりとしたお気に入りの自室で、そうやって夜が明けるを熱心に読んでいたのだ。

 


PMDD鬱の前後は、やはり就活すべきかと仕事について真剣に悩んでいて、実際に就活サイトで(自分の経歴や特技を載せておくとオファーが来るもの)気になった企業とやり取りまでして、面接の日程調整まで進んだものさえあったのだが、鬱が落ち着いたタイミングで帰省中の彼も帰ってきて、それからすぐ連勤もあったので、鬱前後で思考から生活リズムまで全く変わってしまい、またもや就活についてはパタリと進捗が途絶えてしまった。

 


そんなふうに、今日は呑気に本を読んでいたわけだが、本なんて読んでいられない日もあって、就活のことで頭がいっぱいの日もあって、また別の日はイラストレーターになる夢に向かって熱心に絵を描いたりもして、どれも自分なのだが、微妙に、いや全然、別の自分なのであった。とにかく今日は、就活のことなど頭に1ミリもない。つまり今日の私は今の生活に十分満足していて、将来に特に大きな心配もなく、幸せだなぁと思いながら暮らしている。

 

 

 

 

 

 

以下メモ程度の日記

 

 

9月15日

 


私らしく生きたいとおもう反面、私らしさとは何か苦心する日々。

 


やはり正社員として働くべきなのではないかと、突然焦って大胆に行動してみる日。

 


やはり私には休息が多く必要なのだと、平日の昼下がりに防災センターのロビーの涼み処でぼんやりする日。

 


今のままの自分では幼すぎると、成長しなきゃと、図書館にこもって情報収集に徹底する日。

 


精神的な支えとして彼氏を頼りにしてばかりではいけないと、いつになくストレッチやバランスの良い食事による健康法を熱心に試す日。

 


母と共通で好きだった作家さんの小説を読んで、涙を流し、母との思い出に浸る日。

 

 

 

8月20日

 


よく考えたらここ数ヶ月、夜眠れなくて困ることがほとんどなかった。今までより、格段に寝つきが良くなったように思う。春の間、仕事が忙しかったのもあってか、社会的に良しとされるリズムにうまく乗り込んで、その流れで今も休みであっても昼夜逆転を全くせず過ごせている。それに、生理前などは夕方にうまく昼寝をするようになった。(そうかいた2週間後にまた眠れない日がちょこちょこあったのでまだ不安定だ)

 


上京して、一人暮らしも一年経ったら、仕事、生活、収入、消費、食事、睡眠、休息…そういうのにかかる労力が、どれくらいのものなのかわかるようになって、多分生きるってこうことなんだと概要を掴んだ気がしたら、気持ちが楽になった。最低限、これだけあればいいのだと金銭的、内面的な、物量、質量が分かると、漠然と抱えていた将来への不安が和らいだ。

私を応援してくれて、理解してくれるひとが、増えたような気がした。それは私が、私を言語化して発信できるようになったからだった。学生の頃は、ただ黙って絵を描くことしかできなかった。言いたいことはあっても、その言い方がわからなかった。口に出すと、思っていることと違ってしまうのだ。だから本当は、思っていることが、なんなのかもわからなかった。言葉にできない気持ちが、喉に詰まって気持ち悪いから、代わりに絵を描いたのだ。

 

 

 

 

 

 

葬式 在宅看護の話

 

 

深夜にお気に入りの詩集を読んでいたら、葬式をよんだ詩があった。

 

葬式の日の、ある春の、情景が浮かぶいい詩だった。あんなふうには書けないけど、わたしも葬式のこと、母のお葬式のことを、備忘録として書いておこうかと思う。

 

 

 

 

葬式

 

 

 


2022年4月29日 母の葬儀は執り行われた。

 

 


母の遺体は三日間、私たちの家にあった。

 


最初の日の夜は、私たち三姉妹で襖を跨いで、母の横たわる方へ頭をむけ、仏間と客間の間で川の字になって寝た。父も仏間の奥の壁の、母の隣で寝て、5人で過ごした。

 


次の日からは続々と親族が集まり、親しかった人も集まり、常に誰かが変わるがわる、母の隣に居座り、母との別れをすまして行った。

 


だから最初の日を除いた、後の2日間と葬式は、母はみんなのものになって、私たち家族が、本当に母と別れを告げたのは、川の字になって寝た最初の晩か、母が生きていた最後の晩までだった。

 


母が家を出る時も、葬儀も、火葬も、全部が仰々しくて、これはみんなのための式典なんだなって、私はそれらの行事を天から俯瞰して眺める気分だった。

 


涙はそんなに出なくって、母が焼かれた後も、式典の終わりに安堵し、窮屈な時間から解放された気持ちにすらなった。

 


母は突然死んだ訳ではなくて、私は母の体が、だんだん病におかされて、死んでいくのを見ていたから、今更ごうごうと泣こうとも思わなかったのかもしれない。

 


私は母がまだ生きているうちに、母のお尻の穴から、必要な薬を入れてあげていたけれど、母のお腹の中で悪さをするものは次第に大きくなっていって、ある日から、私はそれに行く手を阻まれて、薬を奥まで入れられなくなった。

 


私は母を殺した何かを、指先の感覚で、はっきりと触れさえしたのだ。

 


死が刻々と近づいていくほどに、母の冷たい足先は目も当てられないほどに青黒く変色していったし、チューブの出入り口であった腹の傷口からは、真っ黒なドロドロとしたものが、どうしようもなく溢れてきた。

 


訪問看護師さんは、毎日午後3時ごろに来てくれたけど、いつもそれまでの間は自分でなんとかするしかなかった。

 


異常が出た部分の写真を撮って、看護師さんにメッセージを送って、アドバイスを受けながら、自分なりに対処した。

 


傷口から溢れるドロドロは、こまめに拭き取るしかなかったし、次々と必要な医療品や介護用具は増えていった。看病の傍ら隙を見てそれらを新たに買いに出かけるのが大変だった。買い出しの後は、母が看病を待っているし、出掛けている間にできなかった家事に追われる。何より食事の時間が迫るのが厄介だった。同居する祖父母と、仕事から帰ってくる父と、私の、4人で食べる食事の用意も主に私が担当していた。

 


だんだんと、私の苦労話になってきたが、備忘録として書いておこうと思う。

 


とにかく、目まぐるしかった。母の死が刻々と近づくほどに、私は今までの私からは考えられないほど強く、母に何かしてあげたいと気持ちを駆り立てられ、忙しくしていた。私は、日常生活を送る傍ら、母の病気と向き合う、普通の世界と、病気の世界を行ったり来たりするような生活を送っていた。母に対して気持ちが強く傾いていたとしても、私が孤独になったり、心身を壊したりしなかったのは、同居する家族がそばで、よくもわるくもいつも通りの生活を送っていたからだと思う。

 


実際に、在宅看護は私という娘一人の力ではできなかった。父がいて、夜は一緒に母を看れたし、大学の春休みだった看護学生の妹も長く一緒にいられた、近くに住んでいて、困った時はいつでも駆けつけてくれる頼れる姉もいて、みんなで母を看病した。母はそのことについて、私は恵まれているのだ、幸せ者だと、最後まで感謝を口にした。父や姉妹が平日や昼間はいなくとも、常に家には同居する祖父母がいて、苦労はあったけど、私が寂しさや苦しさを感じる隙はなかった。

 


私は、母の要望で、母の寝る布団に上がって、痛がる背中を念入りにマッサージをしたり、冷えた手足をカイロで温めたり、お湯を運んで来て足湯をさせたり、濡れたタオルで熱のある頭を冷やしたりした。

 


服を着替えさせたり、お風呂に入れたり、シーツを変えたり、オムツを変えたりした。

 


洗濯をしたり、食事を作ったり、来客や看護師さんを迎えたり、買い物に行ったり、掃除をしたりした。

 


1日はあっという間に過ぎた。母が生きている、それだけで嬉しくて、母に何かしてあげられる、それは他の何よりも尊く、素晴らしいことだった。母のために忙しくすることが、私の使命で、わたしはその使命を心から全うした。

 


母は、最後の日曜日に、家族5人とありふれた休日を過ごした。姉が料理を作ってくれて、妹が率先して処置をしてくれたから、母は私と二人きりのいつもよりも、安心した様子で、ゆっくりと横になっているように見えた。私は母の寝るベットの隣の窓を拭いた。部屋を覗くと、父は母の手を握って話さず、長いこと隣に座り、時折ポタポタと涙を流しては、まだ目を開けてものを見ることができていた母に、じっと慰められるよう見つめられていた。

 


月曜日になって、再び私と母の二人きりの時間が戻った。母が寂しくないように、隣に座って過ごした。母の意識は明らかに、今までより朦朧とし、午後になると、目がもう何を捉えることもできない虚な状態になっていることがわかった、虚構を見つめ、言葉は返ってこず、呻き声を小さく上げるだけになった。

 


ああ、母はもう戻ってこないのだとわかっても、私は、母が呼吸をし、母の心臓が動いている限り、看病を続けようと決心していた。あと何日、あと何週間になるかわからないけれど、とにかく、やり遂げるのだと。しかし、母は思いの外あっさりと、いや、潔く、振り返らず、真っ直ぐに天国へといってしまった。

 


葬式の日、私が天から葬儀を眺める気分だったのは、行き場のなくなった私の決心が宙を漂って、あの目まぐるしかった日々はもう終わりなのだと、その喪失感に、解放感に、呆気に取られた気持ちだったからなのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後

 

 

葬儀の後は、父を中心に、叔父さん、叔母さん、従姉妹たちも集まって、ちょうどゴールデンウィークだったし、なんだか毎日がお祭りのように賑わしくて、私はやっぱり全然、寂しくなかった。

 

むしろ楽しいくらいだった、毎日姉妹と従姉妹たちといられて嬉しかった、父をサポートしてくれる頼れる叔父さん叔母さんがいて安心できた、みんなが母の死を、私たち家族と同じように心から悲しんで、残された私たち家族のそばにいてくれて、嬉しかった。感謝してもしきれない。

 

みんなが私の誕生日のお祝いをしてくれた。私のこれまでの看病を讃えてくれた。

 

母が、幸せ者であったなら、やっぱり、母の娘である私も、幸せ者なのだった。

 

 

 

 

 

 

2023年8月 行動開始

 

 

 

8月14日

 


今月からバイト先を一つ増やした。週に一回、月4万円程度収入プラスの見込みだ。すでに2回目の出勤を終えた。

 


7月は頭から10日間ほど寝込んでしまった。しかし、いや、だからこそ回復するや否や、いくつかの行動を大胆に開始した。

 


このまま漠然と金銭面に不安を抱きながら生活をして、無理な節約で心身を弱めたり、本当にしたいことを我慢してクヨクヨする日があるのは勿体無いからと、思い切ってバイトの掛け持ち先を新しく決定し、テキパキと面接を受けて、早速来月(今月のことだね)から入れるように話をつけてもらった。ものの数日で未来が変わった。気分は爽快。辛いと感じたとしても、同じところでなんとかやっていかなければならない身動きの取れない年齢、環境にいるわけではもうなくなったのだ。

 


それから、結果はどうであれ一度は就活にチャレンジしてみようと考えた。就職はおろか就活もしたことがない状態とは、完全に私の落ち度で引け目だ。その引け目は、私を見る家族や周囲の目を何か言いたげなものに感じさせて、居心地を悪くさせる。その目にただ怯えるだけで解決しようとはしない私は馬鹿だと思った。一手間かかったとしても、もっと生きるのが楽になるための手間なら、惜しむものではないと思った。

 


就活を始めるならばと、並行して低用量ピルの服用を始めようと思い立った。すぐに問い合わせをした。低用量ピル、なんと手続きの簡単なことか。薬は次の日には届いた。

 


就活はオンラインカウンセリングを予約した。カウンセリングの日程は少し先になってしまい残念だった。ただこれも話が始まるとどうやらトントン拍子で就職まで漕ぎ着けられるらしいから、私のように少し相談してみたいだけの場合は別のアプローチ方法を考えるべきらしかった。実際に後日カウンセリングは受けたものの、なんやかんやうやむやになったりして、結局一旦保留の状態で現在にまで至る。

 

 

 

 

 

 

就職と月経前症候群の克服は私にとって同時の課題になる。体調に波があるようでは満足に仕事ができない。それは、そもそも大した仕事に就けなかったり、パフォーマンスが下がる期間中に仕事先に迷惑がかかるかもしれないというような一社会人としての能力(体裁)の問題もあるが、それ以上にそんな有様では私がやりがいを持って仕事ができないから嫌だという強い個人的な気持ちの問題が大きい。

 


とは言え体調が良くさえいれば、どんな仕事でもやりがいをもってできるわけではないだろうから、その辺も踏まえて色々書いてみる。

 

 

 

ちなみに私のやってみたい職業(やりがいを持ってできるだろう職業)は、画家、作家が第一候補だ。実際、今も半分やっているような状況だけど、多分仕事とはいえないんじゃないかな。まずそもそも画家になりたいならもっと枚数描かなきゃな!とこの文章を書きながら思ったり…。

 


「仕事=プロ意識を持ってやっていること」なら、私の作家業は現段階でも立派な仕事なんだけど(主観)「仕事=収入の柱」なら(一般的に仕事とは収入の柱のことなんだと思う)私は一生、作家業を仕事として名乗れないだろう。それは私の作品が爆売れする気がしないのは1番の現実的な理由なんだけど、そもそも爆売れして大忙しになるのも嫌だから、自分の好きなペースでできたらいいやぁ、作品に対して、お金になったらラッキーっていうスタンスなのが、仕事にならない原因の根幹なんだと思う。

 


作ったものがお金になるっていうのは客観的なクオリティーが強く求められたり、時間の制約があったり、お客さんとのコミュニケーションが求められたり、自分のペース、自己満足、じゃ済まされないそれが大変だなと思う。大変だなと思ってめんどくさがっている限り仕事にはならないんだと思う。

 

 

 

(画家になりたいとして、描いた絵が自然とお金になっているような人は画家が天職なんだと思うけど、描いた絵をお金にしようと必死にならなきゃいけない人は、向いていないんだろうなと思ったりする。私の経験上、向いていない人が背伸びをすると、いつか必ず無理が祟る。自然とお金にならない限りは趣味として自由に取り組むのが1番で、今の私は後者であることがあっているなと思う。)

 


作家業、気持ちだけは1番の仕事として取り組んでいるんだけど、おかしいなぁ。

 

 

 

そう。めんどくさいと思いながらいい仕事って絶対にできない。月経前症候群は、どんな仕事であれ、仕事を大変だな、めんどくさいなと思う時間を増やしてしまうから、治したいと思う。やるなら、嫌々じゃなくて、いい仕事がしたい。いい仕事ができていると思えることが、やりがいなんじゃないかな。

 

 

 

そういえば私が中学2年生のとき、学校行事で将来の夢をステージで発表しなくちゃいけなかったのだけれど、特になりたい職業とか思いつかなくて、ショップ店員と書いて発表した。そのころ、車で2時間弱かかる隣の隣の隣の…市にあるような、大型ショッピングモールで買い物するのが私にとって特別で、大好きで、憧れだった。とりあえず都会に住めたらいいなと思ってたし、服とか小物、雑貨が大好きだったから、ショップ店員はピッタリじゃんと思った。その頃の私が優等生ポジで、クラスのイベント事ではよくリーダーになって仕切るタイプだったから、クラスの男子に、店員じゃなくて店長でしょって突っ込まれたのも強烈で、よく覚えている。

 


そんなこともあったりしながら、ショップ店員になれたらいいと頭の隅では思いつつも、中学、高校と勉強に打ち込んでいたら、いつの間にかいい仕事とは、より高度で自分にしかできないような難しい仕事ができることなんじゃないかと半分脅迫のように思っていたこともあったけど、24歳とかになって結局、本当にショップ店員やってることに気づいて振り返ってみたら、難しくなくても、好きな環境で、好きなもの売ったりして、適度にお客さんの笑顔がみれたら、充分いい仕事じゃんかね、と思ったり。

 


だからもし月経前症候群が治っても、人に自慢できたり、人が羨むようなかっこいい仕事に挑戦するとは限らないなと思ったり。

 

 

 

話を戻して。

 


作家業が仕事でないとして、ちゃんと収入の柱となる「仕事」を始めよう考えるなら、企業に入ってアニメの背景美術とか?とにかく美術系の何かができたらいいなと思う。

 


そう甘く見積もって、この前の就職カウンセリングで、とにかく美術系ならなんでもいいのでまずどんな仕事がありますか?と聞いてみたら、高卒で美術系の求人は0だと一蹴された。

 


そもそも就職エイジェントで美術取り扱ってるところはないんじゃないかと言われ、美大なり専門学校なりにいかないとという話らしい。学校なんて、今更の話だ。親を頼らなきゃいけなくなってしまう。それだけは避けたい。(私は親に生かされていると思わざるおえない状況が、生きている心地がしなくて1番辛い。)自分の力で、生活費を稼ぐので手一杯かつ、充分の暮らしなのに、その上に学生をする?贅沢だ。現実的に、お金も体力も気力も足りない。採算が合わない。

 

 

 

仕事って、難しい。お金を稼ぐって、単純なようで、単純じゃない。

 


好きなことをそのまま仕事にしたいと考えると、趣味を仕事にまで昇華させられる個人の高いポテンシャルがいる。それができず、企業に頼って専門性の高い仕事に就くとすれば、どうにも高学歴が必要になってくる。

 


今時の子供が憧れるかっこいい職業って配信者とかプロゲーマー。(驚いたことに、特に女子はなりたい職業で公務員が上位にランクインするらしいけど、いや女児よ、現実見れすぎではないか?)

 


配信者も、企画力とか編集力とか話術とか?個人のポテンシャルが試されると思うから向き不向きがある…。だったらせめて周辺の仕事ができたらいいなと考える。ゲーム会社とか。しかしながらこのゲーム会社の求人こそ、高学歴一色。

 


やりがいのある仕事を得ようとして、好きなこと周辺で探しすぎないことは大切になってくるのかもしれない。好きであるほど、自分がそれに求めるクオリティは高く鋭くなる。だからなれない、あえてならないということだってあるさ。

 


もともと魅力的に見えるものが、非常にハイレベルなもので、私たちは天才たちが作ったものを楽しませてもらっているファンだと理解する。そして納得する。ファンでいいじゃないか、それで充分だと思えたら、楽だし、正しいと思う。

 


消極的にも思えるが、好きなことがあるのなら、その好きなことに費やす時間を侵しすぎない仕事につけたらいいくらいに思っておくと、ちょうどいい職が見つけやすいのかもしれないなどと結論付けてみる。

 


そう考えると公務員になりたいっていうのはいい考えだ。多分仕事がすごく大変な訳じゃないし(違ったらごめんなさい)安定しているから、趣味を楽しむ時間がそこそこ取れそう。(学校教員は別だね。)公務員なら、すごく苦労しなくてもなれる。(人によると思うけど。)

 


公務員になりたいっていうのは、公務員っていう仕事がかっこよくてなりたいのではおそらくなくて、(憶測で言いたい放題ごめんなさい)収入や仕事内容が安定しているところが魅力で、休みも一定に取れるし、(教員を除く)暮らしの中で仕事とそれ以外の比重が良く言って半々くらいになるイメージ。仕事の外に、生きがい、趣味、好きなことがあって、仕事と私生活が両立しやすい働き方が好評なんだろうとか考えてみる。

 


そう考えると、好きなことをしながらそれがお金になる配信者と、仕事と私生活の両立を目指す公務員、目指すところが全く違うとは言い切れないように思えてきた…ような気がする。

 


GDPがどうとかいうけど、やっぱり幸せって、経済とか仕事を中心に測るものじゃないんだろうなぁと思う。

 

 

 

 

 

 

私が作家業を趣味半分でやりながら、のらりくらり生きていくことを諦めて、代わりに何か安定した職に就くとしよう。

 


(というのも、仲の良い彼氏がいるけど、お金がなくて結婚や子どものことが考えられない状況なのだ。お金があったら、結婚して子供を作ってみたいとぼんやり思う。今の所それが就職へのモチベーション、目的だ。あとは従姉妹や妹の結婚式にご祝儀を持って大きい顔で行けたり、お世話になった身内に何かの折にお祝いやお見舞いが出せるようになるのがありがたいなと思う。お金の使い道としては、そういう大切な人との繋がりや体裁のことが1番に頭に思い浮かぶので、果たしてそれが真に自分に必要なことなのか、具体的にいくらくらいあればいいのかなどは精査していきたい。)

 


しかし仕事をするとなると、問題になってくるのが依然、体調(とモチベーション)なのである。

 


私にはある日突然、頭に靄がかかったような鈍い頭痛に襲われて、ひどい倦怠感に襲われて、極端に集中力がなくなったり、やる気や希望がなくなって動けない日というのがある。これを月経前症候群のせいだと見ている。

 


この状態のまま、就職したらどうなるかをよく考える。今まで就職を避けてきた理由はこれである。

 


きっと体調が悪くても、たかがホルモンバランスが理由では仕事は休めないだろうし、ミスの言い訳にもならないだろう。なぜならこれは女性全員のつきもので、周りを見てごらんなさい、どうして自分だけできない、どうして自分だけは許されると思う?など、言われても言われなくてもなんだかんだ自分を言いくるめて、私はコツコツ通勤する。体調が悪い日が分かっているのなら事前に対策をして細心の注意を払うべきなのだろう。努力。努力。家に帰って疲れて泣く。朝どうしても重い瞼を無理やり開いて、やっとの思いで仕事先に向かう。空気を悪くしないように偽りの笑顔で、冷や汗をかきながら機械になったつもりで仕事をこなす。

 


続かないんじゃないかなと不安になるのだ。嫌々やってて、やりがいが感じられないのは当然だ。お金の為だと割り切る?仕事が辛い(体調が悪い)ことと、給料の話は別じゃないかと涙ながらに号哭する自分が想像つく。全部妄想だけど、私のシミュレーションだとこうなる。辛いことを見えなくすることが苦手だ、納得できないことを頭ごなしに強制される生活は私にはできない。ネガティブに考えすぎなのだろうか。やってみたら意外とうまくいくのだろうか。

 

 

 

 


仕事と社会性について

 

 

 

安定した職業といわれるものに、なるべく人はつくべきなんだろうなと頭では思う。まずお金がないと生きていけないから、収入源をしっかり確保できることは大切だ。単純にお金はあるならあった方がいいという話だけだったらこんなに難しく考える必要はないのにな、仕事とお金の関係は複雑だ。仕事はお金だけに働きかけるわけではない。仕事は社会性に強く働きかける。なんだかんだ就職していないとなると、社会で生きづらい。仕事をするということは、人と関わるために1番メジャーなパスポートを得られるということだと思ったりする。私は怪しいものではありませんよ、皆さんと同じように社会経験あります、つまり常識がありますよ、という保証書になってくれる便利なパスポート。

 


パスポートなしで最初で最大の試練とは、家族に顔を合わせにくいことだと、実際に浪人や実家暮らしフリーターを経験したことがある私は思う。仮に家族には受け入れられても、家族の周囲のお節介な人から口出しされ、家族までもが非難の対象になるのは申し訳ない。

 


パスポートがあれば多くの友達と話を合わせやすい。むしろ、パスポートを持たないと友人関係を保つのが困難になってくると言えるのかもしれない。多くの友人関係の良好な学生たちが、自然と足を就職に進められるのは、ポジティブな意味でそういう作用がパスポートにあるからだと思う。同年代の友達がいるというのは、不安も多いだろう社会に出ていくときの支えや理由の一つになるのだろうと、友達のほとんどいなかったわたしは少し羨ましく妄想する。

 


パスポートがあればライフステージにあわせてなにかと行政の支援を気軽に受けやすい。前向きに結婚や子育てを検討できる。

 


つまるところ、社会の中で孤独を感じにくくなる。

 


私はどちらかというと金銭的な不安より、その、安定した仕事をしていないが故の社会的な孤立感、孤独感をふと感じた時に、仕事しようかなと本気で悩む時がある。寂しさは、即効性を持って私を就職へと駆り立てる。

 

 

 

代償に毎日にちょっと我慢が多くなるパスポート。この共有される我慢がパスポートの影響力を強くしていると思ったり。パスポートを持ってない人を、怠けてるとか、楽してて羨ましいとか、非難の対象にさせやすくしているのは、ちょっと厄介だと思う。

 

 

 

まとめると、でもやっぱり、私は自分の気持ちを偽ってまでして無理して働く姿を妄想した時に、いくらちょっと寂しいからって、そこまでの代償を払ってでも、社会での生きやすさを手に入れたいのかなと足を止める。多少人と比べて収入が少なくても休みが多い方がいいかな思うし、家族や周囲に小言を言われてもしょうがない、できるだけ上手にかわそうかなと思う。友達は少なくてもきっと思っているより悪いことではないだろう。

 


社会で生きにくくても、自分の世界で生きやすかったらどうだろう。時代も変わってきて、自分の世界が中心でも、十分生きていくことができるんじゃないかと思う。別にそれは社会と隔絶するわけじゃなく、自分の世界の中で自分の身分証を作って、適宜それをパスポートにして外の世界と交流できらたいいんじゃないかと思う。

 


長くなったけど、最近思ったことはこんな感じ。

 


社会での生きずらさが自分の世界の生きやすさに侵食している部分をどんどん無くしていって、自分らしく生きれたらいいな。

 

 

 

以下、今月の生理による不調の備忘録

 

 

8月19日 生理3日目

 


18日23時半(生理二日目に差し掛かるタイミングで)低用量ピルの服用を始める。夕方は叔母さんとご飯に行った。息抜きにはなったが、早めに帰ればよかった。生理1日目だったから、少しだけ無理をした。雑踏や飲食店の騒がしさが耳に残る。疲れあり。腹痛はあったが1日目にしてはそれなりによく過ごせたと思う。案外寝つきは良かったみたい。

 


19日朝5時、不快感で目覚める。うなる。体がだるい。トイレに行って生理パットを変える。陰部のかゆみあり、不安。とにかくシャワーを浴びる。腹痛(違和感)あり。歯磨きをする。昨日の疲れが取れていない。飲み物を飲んで気持ちを落ち着けてから癒しの音楽を流して二度寝

 


朝9時半、腹痛が我慢できなくなってきた、だるかったが薬の服用のためにも朝食を取らねば。布団から抜け出して納豆ご飯、インスタントの味噌汁をかきこむ。動画を見ながら気持ちを紛らわす。市販薬の頭痛生理痛薬を飲む。2粒。布団に戻って、動画視聴、気持ちを紛らわす。内臓がムカムカする。だるい、何もする気が起きない、布団に戻る。頭が回らない、ぼんやりする。

 


11時時半、横になっているのに飽きてきた。布団から抜け出す。机に向かって、深呼吸。ハニカムシェード後しに日光浴。イヤホンをして音楽を楽しむ。本を開いたりする。ちょうど彼が帰ってきた、色々食料を買ってきてくれた。嬉しい。私の好きなもの、病気でも食べれるもの、ばっちり。ありがとう。2時間半ほど、寝込まずに過ごせた。音楽を聴いて、座って、ゆったり。

 


軽食を食べて、14時ごろから、昼寝。だるかった。

 


16時、目が覚める。だるい。腹部違和感あり。ご飯食べて薬飲んでおく。やる気など起きず。気分も悪い。また布団に戻る。彼にだる絡み。寝ようとしても寝れず、動画を見ても、目が疲れてイライラする。動画に完全に飽きて18時半ごろ布団から抜け出す。机に向かう。ピルの副作用なのか、生理三日目(になる)の症状なのかわからない。集中力、思考力などない。とりあえず、体調の記録をしてみる。

 


好きなことが全く手につかなくなるのがつらい。だるい。何もすることない。ぼーっとするしかないのに、頭はぐちゃぐちゃ体がだるくて上手にぼーっとできない、退屈でぼーっとできない。はしゃぎたい、破壊したい、滅茶苦茶。

 

 

 

私の体調悪が、月経前症候群のみの理由かはわからない。ピルの服用が正しいか不安になってきた。いや、過去の日記をみる、過去の事件、ツイートなど思い出す。ずっと悩んできたんだ、もう治そう、大丈夫、やってみよう。

 

 

 

 


そういえば、先月も生理がなかなか来ず、いつもより1週間ほど遅い30日周期できたが、今月も、30日を超して生理がきた。なぞ。

 

 

 

 

 

 

2023年7月 東京の夏が来る

 

 

6月27日

 

 

 

じわじわと、しかしはっきりと、部屋でじっとしていても暑さで体力を消耗するようになってきた。

 


暑いのは昼間の数時間だけだと見込んで、夕方に一旦冷房を消してみるのだが、日に焼かれた建物は熱気を持ち続けて一向に冷めず、ならばと窓を開けてもよく焼けたアスファルトから放たれる生あたたかい空気が入り込むのでむしろ逆効果なほどで。アプリが示す外気温が27℃とか26℃とか、クーラーを絶対につけなければならない数字ではなくても、実際のところ深夜を過ぎなければ街が日に焼かれる前のちょうどいい室温には戻らない。

 


降参して、アプリが示す外気が何度だろうが割り切って常時クーラーをつければ良いのだろうが、人工的な冷気は体に悪い気がして気が進まない。

 


小型の充電式サーキュレーターをカーテンレールにつけて、背中に風を送ってみるが、加減が難しい。

 


そうこうしているうちに、暑さにやられて食欲が完全に失せてしまっていることに気づく。

 

 

 

ここ数日だ、窓を開けて過ごせなくなったのは。

 


夏至をちょうどまたぐ頃はまだこんなに暮らしづらいとは微塵も思わなかった。日が長いっていいなぁと、夕方には外へ出て、涼しい風に吹かれながらのんびりと散歩をした。案外、私は6月が好きだなんて思った。

 


たしかに、今週末には7月になる。手帳の1番下の方をじっと眺めて、それからページをめくって「あ」と、夏本番はもうすぐそこに迫っていることに気づく。

 


先日、前の日の朝に茹でた作り置きの大量のそうめんを何食かに分けて1日かけて食べた。

 


熊本産のトマトは瑞々しくフルーツのように甘く食感も良く美味しかった。

 


アイスコーヒー用のボトルを買って冷蔵庫に牛乳とセットで常備することにした。

 


意識するよりも体が先に、夏に向けてウォーミングアップを始めていることに気づく。

 

 

 

1年のあいだに季節が4つもあるというのは、どうだろう。ちょっと、短い間にあり過ぎやしないか。

 


季節の変わり目に弱い。体が慣れて暮らしやすくなっても半月ほど経つと次の季節への順応期間に入る。

 


着るもの、食べるもの、都度調整を重ねつつ、季節は変われど変わらない習慣として散歩や、入浴、美容(香りによるリラックス法、身の回りの清潔さ、ストレッチ、)睡眠、このあたりは狂うことなく確固としていたい。このあたりを指標として、仕方ないから季節に順応するまでは都度休み休みいることにしようと思う。

 


無理して転んでも喚いても、助けてくれるママはいない。学生までだ、無理できるのは。楽しいこともつらいことも自分の限界まで夢中になって挑戦できるのは、周りのサポートがある環境までだ。

 


大人になってしまったら、一人で暮らすようになったら、決して限界を迎えてはならない。常に、せめてこの後一食分の食事が取れるだけの体力を残し、どこで何をどのくらい食べようかある程度の算段が頭の隅で立てられるだけの余裕をもっていなければならない。

 


そんなこと意識する必要もない人は大勢いるのだろうが、私にはこれが重要で難しいことなのだ。

 

 

 

 

7月22日

 

 

 

冬の間、気分のすぐれない日や眠れない夜は躍起になって日記を執筆した。充足感やスッキリ感、気づき、成長、得たものは色々あるものの、失うものもあった。身体の健康と、お金だ。

不規則かつ怠惰な食生活によって体重と食費が激増。コンビニで賄うジャンクな栄養もとい手軽さをお金で買ったら口座がすっからかんになった。

 


7月の目標は節約。特に食費を最小限に抑えたい。というのもお世話になっているバイト先のシフトが減った。(税金の関係でこのままでは働きすぎであったからちょうど良い話だったのだが)収入が少なくなる分は、支出を減らしてバランスを取りたい。今月の鍵は、休みをいかにお金を使わず過ごすかになってくる。とすると今までより机に向かう時間は減らす必要がある。なぜなら脳が疲れるとそのケアにちゃっかりお金がかかることを冬の間に学んだ。

 


究極の三日間を過ごした。丸一日中布団で疲れるまでアニメを見続け、合間に散歩と軽い自炊と質素な食事をとるだけの生活だ。それなりに楽しかったが、これが正解かと問われれば微妙だ。

 


ただその三日間でクーラー暮らしに慣れた。今ではキンキンの部屋で肌の露出が少ない格好をして生活するのがベターとなった。

7月の初めから中頃まで、連日猛暑が続いた。梅雨明けもまたずいきなり灼熱の夏。早朝から晩まで気温はほとんど30度を下回ることなく、最高気温は36度、たっぷりと湿度を持った熱風が街を駆け、セミは夜通し鳴き続けた。

 

 

 

 

 

 

特に6月から7月に切り替わるころはまさに季節の変わり目という感じで、とにかく体調がすぐれない日が続いてしんどかった。蒸し蒸しジメジメとした気候に体が全く慣れず、おまけに低気圧か、だるくて吐き気もして、気分は常に憂鬱だった。

 


次の週は生理前か、疲れが取れず、集中力もなく、だるくてよく布団で横になって過ごした。前の週から食欲が低下していたことも影響したのだろう。引き続き何もかも憂鬱だった。それに、突然の長い休暇にヌルッと突入して、目先にこれと言った目標もあらず、体調不良と戦っていると言いながらも、ただただ時間を持て余してしまっている日々に、精神的にも少しまいっていた。

 


15日にいつもより遅れて生理が来たら、少し体が楽になった。眠気は残っているが、頭痛、吐き気といった体調不良はなくなった。

 


湿度が以前よりマシになった。暑いけど最高にいいお天気を利用して洗濯を干そうなどと元気良く考えるようになった。それから猛暑が少し和らぎ、最高気温は高くて33度、朝晩がこれなら過ごせると思える気温まで下がるようになると、夏を越すイメージが膨らんで来て楽しくなった。

 

 

 

上京してそろそろ一年になる。生活に慣れ、余裕が持てるようになったのだろう、作業に没頭する手をとめ、周りと、少し先の自分の未来を想像しようと挑戦するようになった。ここ数日は、その新たな挑戦によって生まれる不安に戸惑ったり悩んだりしながら過ごしている。その都度気軽に彼に話を聞いてもらっている。それに向き合うだけの落ち着きが、自分の中に生まれつつあるのを感じる。

 

 

 

 

6月の夕方、快晴の空、銀杏並木から吹く涼しい風

 

 

6月16日(金)

 


なんか暇だ。

 


昨日東京に戻ってきた。サラリーマンにまぎれて名古屋から13時20分発ののぞみに乗った。

 


珍しく指定席をとったら意外にも席が埋まっていた。午後1番の便だったからかな。仕方なく二人席の通路側を選択した。願わくば女性の隣でありますようにと薄く望みながら席まで向かったけれど、残念ながらパソコンを開いた若いサラリーマンの隣だった。

 


イヤホンをして、吉見俊哉さんの東京裏返し社会学的街歩きガイドを熟読して時間を潰した。

 


確かに指定席は静かだし、食べ物の匂いも一切しなくて彼の言う通り快適だなと、自由席派からの転向を密かに検討したりした。

 


東京は小雨が降っていた。JR上野駅公園口は平日にも関わらず老人の観光グループと家族連れで賑わっていた。

 


東京裏返しガイドで得たうんちくを頭に浮かべながら公園を眺めた。

 


東京は面白い。今に生きる者の視点からして、最先端で話題が絶えない煌びやかな面白さもあるのかもしれないけれど、ここ数百年間ずっと日本の歴史の中心地で、さまざまな事件、ドラマの舞台であった「江戸・東京」のことを考えるともっと面白い。少し歩けばいくらでも史跡が見つかる。かつ現在の東京の活気とそれとのコントラストが強くて、面白い、興味深く思う。

 


ほどなく迎えの彼がやってきて二人でファミレスへ向かった。車内でおにぎりを食べ損ねていたから腹ペコだった。

 

 

 

 


6月1日から6月14日まで実家に帰省し、始めの週は週6(日曜休み)のペースで、そのあとは休みなく働いた。

 


叔母さんと一緒に仕事をしたわけだが、これが意外にも充実した時間で、最終的には叔母さんと二人で過ごす日々が楽しくて、あっさり帰ってしまうのが少し惜しい気がした。

 


叔母さんの手料理が美味しくて、叔母さんの家事をする姿が頼もしくて、嬉しかった。

 


皿洗いも、洗濯も、してもらった。大したことないよ、置いといて、が叔母さんの口癖だった。

 


叔母さんはとにかく仕事に取り掛かるスピードが早い。もちろん仕事も早い。初めはそのスピード感に慣れず、叔母さんは私に気を遣っていて、無理をしているのではないかと不安になったり、自分が叔母さんの仕事のスピードについていけないことを苦しく感じたりしたが、慣れてくると「大したことないよ」は魔法の言葉になった。

 


めんどくさい、やりたくない、と、先延ばしにしたってどうしようもないことを放っておくことこそ、めんどくさい。いつまでも頭の隅に、やらなきゃいけない気掛かりなことをおいておく方が気持ち悪い。考える暇なんてなくていい、家事なんて、仕事なんて、さっさと終わらせてしまえ!

 


たしかにやってみれば、やってしまえば本当に、大したことないことばかりだった。叔母さんはチャーミングで、明るい。秘訣は、行動力だ。大したことない!の精神と行動力が、叔母さんのハッピーな笑顔の秘訣だ。一緒に生活したから、一緒に仕事をしたからこそわかった。なんだか、すごくいいことを学んだ気がする。人の家庭を覗くことなんて滅多にないと思うが、縁あって私は叔母さんと生活して、自分の母親でしか思い浮かべなかった母親像が、窮屈で一本槍だった家庭像が、少し柔軟になって、今後の人生の参考になるような心強い気持ちがした。

 


私は尊敬する叔母さんとせっせと二人で休みなく働き、美味しい手料理をご馳走になり、充実した日々を過ごすとそれから間髪入れずに帰りの電車に乗り、新幹線に乗り、流れるように東京の小さなアパートに帰ってきたわけだが、その翌日である今日、一人暮らしの休日がなんとも暇であることに呆然としながら、東京の昼下がりを冷房の効いた狭い部屋で過ごしている。

 

 

 

自営業で三世代同居の実家は、食事、入浴、睡眠、といった時間が家族共通で、毎日定時に、規則正しく繰り返される。よく言えば健康的だ。実際は家事を担当する者がその規則を揺るぎなく実行するために、細かく時間に振り回され、とにかく慌ただしい1日を過ごすことになる。家事と家事の間に自営業の仕事と、自分の趣味まで組み込めば尚更だ。それもよく言えば、本当に1日というものがあっという間で、これ以上になく充実した日々を送ることとなるとも言える。

 


そんな健康的であると同時に窮屈でもある生活から突然解放されたのだから、この東京の一人暮らしの暇とは、本当に暇なのだ。

 


ただ仕事がないだけじゃない。起きる時間も自由、寝る時間も自由、食事の時間も自由、入浴も自由、外出しようが家にいようが勝手、誰と逢おうが何を食べようが何をしようが勝手、縛られるものが何もない、なんて贅沢で、ちょっと寂しい暇か。

 


叔母さんは元気だろうかと、私が東京に戻ったことで日中は完全に老人ホームの管理人のような生活を余儀なくされる叔母さんの生活を案じる。どうか次会うときにも、叔母さんのチャーミングな笑顔が見られますように。

 

 

 

15時半。それから私は散歩に出かけた。

 


東京裏返し社会学的街歩きガイドを参考に、素知らぬ顔で東大へ入り、大学紛争の渦中であった安田講堂の現在の姿を興味深く眺めた。それから三四郎池に向かうと加賀藩の屋敷であった頃を思いながら元気よく一周した。想像以上の自然(三四郎池の周りは完全に山・立派な雑木林だった)を満喫したら、今度は点在する東大校舎の石造りの厳かな建築を堪能するために、我が物顔で様々なベンチに腰掛けると、銀杏並木から吹いてくる涼しい風を全身で感じながら飽きるまで眺めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

母の一周忌を終えて

 

 


母がいなくなったことを、いつかもっと寂しく思うことがあるのだろうかと考える時がある。

 


それがもしも歳をとればとるほど寂しくなっていくものなら、どうしようかと思うことがある。

 

 

 

母の葬式が済んでから、母の着ていた下着とか、どうみてもお下がりで使わないような洋服はまとめて捨てた。

 


そのことをいつか猛烈に後悔する日が来たらどうしようかと、最近になってふと思ったりする。

 


(…そういう時は「きっと人間は、歳をとればとるほど未練がましくなっていくものだと私は思うから、母との思い出は早いうちに整理して正解なんだ」と思うことにしている。)

 

 

 

 

 

 

私はこの1年間、母が死ぬ間際まで使っていた、母のお気に入りだった毛布とパジャマで眠った。

 


母の使っていた目覚まし時計を鏡の前に置いて、毎日それで時間を確認している。

 


母がプレゼントしてくれた水色の水筒と、母からの最後の誕生日プレゼントの長財布を愛用している。

 


母と一緒に選んだ服を着て、母が買ってくれた靴を履いて出かけている。

 

 

 

今はそれだけで十分だけど、もしもそれだけじゃ足りなくなったらどうしようかと思う時がある。それらが古くなって壊れたり、身につけられなくなっても、もう母から受け取る新しいものは手に入らない。

 

 

 

 

 

 

私が東京に住んでいることを、母は知らない。これからも、母がそのことを知ることはない。

 


そのことが不思議で、ああこれが死んでしまうってことなんだと思ったことがある。

 

 

 

去年の夏に、新居の鍵を手に入れて、そのまま近くのカフェでお昼ご飯を食べた時、こんなに素敵なカフェのすぐ隣に引っ越したんだって母に伝えられないことが、信じられなくて、とてつもなく悲しくなって、涙を流しながらエスニックな味がするライスを頬張った。

 


火葬場で、母が骨だけになってもたいしたことなかったから、こんなものかって春の間は平気に思っていたけど、その夏のカフェで、私が母の死を実感するのはこれからなんだと予感がした。

 


4年も前から付き合っている彼と一緒の生活が始まって、何度も喧嘩したけどその度に仲が深まって、私も彼もすごく大人になったというのに、母にその物語を伝えられないのが残念でならない。

 


母は最期に、彼とうまくやっていくんだよと私に言うくらい私たちのことを心配していたけれど、今では母が飛び跳ねて喜ぶくらいうまくやっているし、きっとこれからもいい知らせができるというのに、肝心の母が、 1番に伝えたい相手であったはずの母が、この先どこにもいないことがとてつもなく悲しくて、涙を流しながら眠ったことが何度かある。

 

 

 

死んだ人は空から見守っているというけれど、それがなんだと思うことがある。例え母が空から私をみていて、母がそっちで満足していても、私は母に会って伝えたかった。

 

 

 

これから先、私はもっともっと幸せになっていくと思う。その度に、私はここにいない母を思い、寂しくなるだろう。また今の私なら母を安心させてあげられたのにと、世話を焼かせっぱなしだった幼かったあの頃の自分を情けなく思ったり、もう一度会えたらどんなに良いかと悲しくなったりするだろう。

 


母の知らない私は増えていく一方で、母との思い出はどんどん古くなる。その恐ろしさと私はこれから生きていくのかと思うと、ただただつらい。

 

 

 

…そういうことなら私は心の中で「お母さん、ありがとう。」と、ただひたすらに唱え続けることにしよう。幸せだった、楽しかった、最期に一緒に暮らせてよかった、ありがとう、ありがとう、と。

 


これから先、母との思い出が懐かしいものになっていくほどに、いっそう強く、ありがとうと唱えることにしよう。その時は空にいるとかいないとか、伝わるとか伝わらないとか関係なく、ただ静かに唱えることにしよう。優しく、力強く、私のために。寂しさに負けないために、私のために。

 


それからやっぱり、私の気持ちはどうであれ、母が空からみて満足してくれるのなら、それでいいとすることにしようと思う。

 

 

 

 

給料日、本屋巡り。

 

 


2023年4月27日(木)

 

 

 

5月の匂いがする。スッと爽やかに鼻をとおる、樹や花の蜜の匂い。風に乗って薫る、瑞々しい草木の匂い。

 


朝起きて、風呂に入って、部屋を整頓・掃除した流れで、前から清潔かどうか気になっていた、彼が部屋から持参した薄手の掛け布団を洗うことにした。よく晴れているから、午後の数時間だけでも乾くだろう。

 


この前の週末は母の一周忌で、私は一昨日の夜、東京の小さな我が家に帰宅。次の日は仕事で、今日は1日置いたスーツケースを片付けた。実家から回収してきた夏服を出して、衣装ラックにかけ、衣替えを済ませた。もうすぐここへきて1年になる。

 

 

 

 


昨日まで降っていた雨がやみ、外は晴天。給料日を迎え、少し余裕を持った財布をトートバッグに入れて、今日はいよいよ推しの本屋を巡る。

 

 

 

SNSを追ってあらかじめ目をつけていた本を、私の思い出作りと、お気に入りの本屋に少しでも応援の気持ちを形として伝えるために、限られた予算を割り振ってそれぞれの店でバランスよく購入、順調にお金を落としていく。

 

 

 

女性が店主の本屋で、展示中のワンカップの写真を撮ってもいいか聞くついでに、色々立ち話をした。というのも前の本屋で男性の店主が、「子供たちも久々の晴れで、外で遊びたくてしょうがないんですよ。雨の間に我慢していた分…体がうずうずしてしょうがないんです。」なんて、朗らかに爽やかに他のお客と話していたから、つい私も誰かと話がしたくなった。

 


本が私にとって贅沢品であること、もっとお金があったらこの素敵なお店で、素敵な本をたくさん購入したいのに、などと、どうしようもない自分の話をしてしまった。だからこそ、一冊一冊が宝物のように大切であること、よく吟味して、その佇まいが部屋に置いておくだけで気持ちがいいものかどうかなんていうことまで考えて購入するのだ、などと一方的に語ってしまった。

 

 

 

 


とにかく私は今、収入が極端に少ない。なんて言ったって、ただのアルバイターだ。24歳になるが、正社員の経験はない。東京に引っ越す前は実家暮らしだった。東京に住む現在、家賃は父に払ってもらっている。最初の数ヶ月間は、誠意を見せるためにも家賃の額を後から父に渡していたが、今は厳しくなって滞っている。まだ金銭的な自立の目処は立っていない。とりあえずこの1年間は父の扶養家族のまま、年間130万円以下で暮らさなければならないから、家賃は父持ちで仕方がないとの結論が、先日私たち家族の間に下された。

 

 

 

 


実家に届いていた、厚生労働省から送られてきた国民年金基金についての案内を、東京の小さな我が家に持ち帰った。軽く目を通すつもりが、25歳で月々の料金について一区切りつくことを知って、しばらく考え込むことになった。

 


ぐるぐるとお金について、年齢について考えを巡らせているうちに、私は正社員の経験すらないまま、この先ずっとフリーターでいるつもりなのだろうかと、私にとっては素朴であり、かつ重大な決断に発展しそうな疑問が浮かんだ。これまで私は、自分の能力を考えると正社員としてやっていける自信がどうにも湧かなかったために、仕事について考えることと言ったら、どうフリーターとしてやっていくかばかりだった。

 

 

 

人生は一度なんだから、やったこともないのに無理だと決めつけて、全く経験しないことがあるのはどうかと思い、正社員くらい挑戦してみていいのではないかと心が傾いた勢いで、お世話になっているバイト先でそのまま正社員になってみようかと思っている旨を先輩に相談したところ、ここはブラックだからやめた方がいいと忠告を受けて、出鼻を挫かれた。

 

 

 

 

 

 

先の話にもあった、女性が店主の本屋で、この間の選挙に投票をしたお客に向けて配っているおまけのポストカードを、私は選挙に行っていないというのにいただいてしまった。嘘をついてもらってしまうのも嫌で、正直に、今回の選挙には行っていないのだと小さな声で打ち明けたが(住民票がまだ実家にあることもあり。)以前は家族総出で選挙には行っていたことを話すや否や、快くつけてくださった。次回は行かねばと思う。やはり、自分が今住んでいる街で投票がしたい。となるとやはり、いよいよ私はどこで、どんなふうに生きていきたいのか、暫定的にでも答えを出していくべきなのかもしれない。

 

 

 

そうこう考えながら、どこまでも青い青い空を見上げて歩いた。少し陽が傾いてきたが、東京の街はそのくらいで寂しくなったりはしない。街は夜まで活気を帯び続け、日々変わりなく忙しなく活動を続けている。少し歩けばどこもかしこも人々の暮らしに溢れている、ちっとも寂しくない、生き生きとした東京のこの街が好きだなぁと思う。