自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

【読書記録】島田潤一郎さん「古くて新しい仕事」 夏葉社/往来堂書店 他備忘録

2023年 3月16日(木)

 


先週、壊れたカメラのレンズを修理に出すために、上野のヨドバシカメラに行ったその帰りに、池之端に周り、古書ほうろうに寄って買い物をした。

 


そこで購入した、島田潤一郎さん著「古くて新しい仕事」というエッセイに、ここ数日間熱中した。夏葉社という、ひとり出版社を経営されて10年の島田さん。彼の誠心誠意の込められた、まっすぐな文章に、夢中になって数日を過ごした。

 


作中に出てくる、夏葉社出版の「レンブラントの帽子」「昔日の客」といった本が、実際にどんなものかと気になって検索をかけたところ、取扱店に、近所の雑貨屋の名前があった。

 


もう閉店時刻を過ぎていたが、店頭の、ガラス張りのディスプレイにある営業日カレンダーを確認するために、午後6時半、その雑貨屋を目指して家を出た。そのまま今日はバイト帰りの彼と、いつものとおり古書ほうろうで待ち合わせをして、仲良く帰宅する予定だ。

 


雑貨屋の正面にある、大通りに向かってまっすぐ伸びる細い路地に入り、突き当たって左に曲がるとすぐ本屋がある。今日の私は何となく、そこに吸い寄せられるようにして入店した。

 


往来堂書店、町の小さな本屋だ。入店は2度目だったが、今回、驚いたことがある。まず、夏葉社の本が、平然とそこにあった。作中の主要な本の全てが、お店に入ってすぐ右手の棚を、ほんの数メートル進んだところに、堂々と並んでいた。店内の本のラインナップを見回す。その決して広いとは言えない、限られた売り場で、思わず一点一点順に手にとってしまいたくなるような、個性ある本がずらりと並ぶ。見応えがある。隅々まで目を配る。小さな出版社の本が、堂々と陳列されている。よく見ると棚の隙間に、「ご希望の本は“速攻”で仕入れます!」との元気の良い文字入りのテープが貼ってある。

 

この書店は、まさに島田潤一郎さんの言う、本好きのための、生き生きとした本屋であることに気がついた。

 

1度目に入店した際は、(PayPayの割引対象店の期間中だったこともあり)大変混雑しており、じっくりと店内を見てまわることができなかった。それにも関わらず、うしろ髪引かれる何かがあったのが印象的な書店だった。

 

しかし、私はきっと島田さんのエッセイを読んでいなければ、この往来堂書店がちょっと特別な本屋であることに、今日もはっきりと気が付かぬまま過ぎてしまっていただろう。その巡り合わせ、本を通して、見える世界が変わったという実感に、感動した。

 

熱心に働く若い書店員の様子も相まって、私はすっかりこの店に親しみと居心地の良さを感じて、正直なところ財布に余裕はなかったが、本を3冊も購入して、店を出た。

 

 

彼と合流して、古書ほうろうでも一冊の古本を購入して、大満足のうちに帰路についた。

 

 

 

 

何気なくお店で手にとって、これなら読み切れると直感で持ち帰り、その本に想像以上に救われることが、東京に来てから多々あった。


ひるねこブックスで手に入れた、作家と珈琲(平凡社)、緑の本棚で手に入れた、植物癒しと蟹の物語(小林大輝 コトノハ)この2冊は、私の思い出の本だ。


まだ引っ越してきて間もなくて、どこか生活が地に足ついておらず落ち着かなかった頃に、近所を散策して手に入れたこれらの本は、まずはその内容の美しさで私を癒したし、それから、書店と本と私、足を運ぶ、気に入って購入して持ち帰る、そういう物理的な関係や経験が、私にこの地とのポジティブな繋がりを確実に作っていった。

 

 

 

 

 

最近、こんなにも生きることが楽しいものだったかと、思うことが増えた。


2月をこれまでで1番穏やかに過ごし、春の兆しに胸を躍らせながら3月を迎えた。


その間に、知らず知らず生活に、本が欠かせなくなっていた。

 

きっかけは、彼の部屋から借りてきた西加奈子さんの小説が、あまりにも面白かったことだ。まるで、今まで体内で不足していた栄養素が、急激に補給されるかのように、カラカラの喉にポカリスエットが染み渡って、ごくごくと喉を鳴らしながらそれを貪るように飲むように、私は本を、ぐんぐん読んだ。

 


寝る前に読む。朝起きて読む。移動中に読む。待ち時間に読む。気分転換に読む…。どんな時もページを開くと、あっという間に本の世界に没入した。

 


詰まるところ、本でないと癒せない心が、人間にはあるのだということを知った。

 

 

いまいち生活にインスピレーションがわかない時に、とりあえず本の続きを読もうと手にとる。どの本も美しくて、面白くて、私は夢中で読んで、それからほんの少し集中が解けて、ふと顔を上げたときに、あ、これしよう、と妙案が思いついたりする。


もしくは、ただ何もせず、ぼんやりと部屋を眺めるだけで、これ以上になく満足を感じたりする。そういう時は、完全に本の余韻に浸っている時だ。本当に心から、ただ生きているだけで幸せだと、穏やかに穏やかに息をすることができる。

 

 


2023•03•13•私の手帳の日記より


「確かに、“今日は絶対ダメな日だー!”って目覚めの日はある。リズムが乱れてたり(バイトに合わせて無理やり朝起きる日が続くと×)生理前でどうにもこうにも体がだるかったり…。それでも、1時間でも、心地よく過ごせたら、どんなに良いか。(中略)辛い日を凌げば、また明るい日は来る。何をしても、しなくても、明日は来る。いい意味で。だったら少しでも、楽に、気楽に、また元気な日が来るのを待てば良いのだ。……」

 

 


今週に入ってから、少し体調が悪い。集中力が急激になくなって、何をするにもやる気が起きづらくなった。寝つきと目覚めが悪い上に、1日に12時間も眠る、傍から見れば怠惰な生活を送っている。これらの症状はつまり、生理前の1週間に差し掛かった、ということであるのだろう。


しかしそんな散々な日を、最近はうまく「過ごし凌げる」ようになってきているのだ。それもまた、本の効果が大きい。


本に没入する間に、日々は刻々と過ぎていく。合間に家事や散歩を挟めばなおさらだ。

 

目覚めの悪い朝、しかしなんとか布団から抜け出して、その足でちょっと部屋を片付けてみたりする。その手で読みかけの本を開いて、ちょっと読んでみたりする。集中力が落ちているから、本もそんなに長々とは読めないけど、顔を上げたタイミングで、気合を入れてスーパーに出かけたりする。外に出て、新鮮な空気を吸えば、自然と肩の力が抜けて、頭にかかっていたモヤが少し晴れたりする。そうやって徐々に行動を起こしていくうちに、知らず知らず環境からいい刺激を受けて、心身が楽になっていたりする。本は、行動を起こすまでの、いい繋ぎになる。本を読むこと自体は、静の動作ではあるけれど、動の動作を誘発したり、その動の刺激をより鮮烈なものにしたりして、本は、案外私たちに具体的な刺激として現れる。

 

大事なことは、調子の悪い日でも、まず最低1時間は気合を入れて、掃除をするなり、煮物かスープを作っておくなりして、その後の1日を1時間でも心地よく過ごせるように、まず準備をしておくことだ。極めつけにアロマを焚いて、間接照明を灯して、リラックスできる最高の環境を作ってから、そこでゆっくり休むのが良い。本も、そういう環境でこそ、満足して読める。

 

 

 

 


【今日作った料理】


さつまいもと豚肉の甘炒め。お砂糖たっぷり。ちょっと醤油を垂らし入れて、お肉には少し塩コショウをかけて炒めた。


舞茸と国産手揚げ風油揚げの、炊き込みご飯。お酒、味醂、多め。醤油少し、本つゆひと回し。舞茸は、フライパンで炒めてから炊飯器に入れること。勇佑、大喜びで、欲張ってお茶碗二杯も食べたら、お腹が苦しくてなかなか眠れなかったみたい。(さつまいもも大喜びでバクバク食べてたし)


玉ねぎ、舞茸、さつまいも、キャベツ、豆腐の、具たくさんお味噌汁。

 

 

【昨日作った料理】


レモンハーブウィンナーとジャガイモ、ほうれん草のバーベキュー炒め。チーズトッピング。食材は全て一口大に切って、飛騨の清見ソースをたっぷり絡めてじっくり炒める。清見ソースは野菜の甘み、旨みがたっぷりで、ジャンキーだけど後味の良い、食べ応えのある味。


(スーパーで買った割引のお惣菜、サワラの竜田揚げが美味しくて、それと白米で他2食はすました。)

 

 

 

昨日彼は、友達の家で、友達の髪を切ってあげていたみたい。(相変わらず、仲の良い2人で微笑ましい)その時に、幸せを感じる瞬間は何か聞かれて、「落ち込んでいる時に食べる、彼女の手料理」と答えたのだと、大好きな炊き込みご飯を一口食べるとニヤリとしながら、私に教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

備忘録 母の話

 

 

 

 


そういえば、庭文庫という、岐阜の山奥にある古本屋と宿と出版社を営む古民家に、母と行き、買い物をした際だったか、私が、「この人にお金を払いたいって思った場所で、買い物をするんだ。」と母に話したら、母は、しばらく沈黙した後、「そんなこと考えたこともなかった。」と目を丸くして私に言ったのだった。

 

 

 

母と私は、趣味だったり、1人の女の子としての雰囲気は似ていたが、もし仮に母と私がクラスメイトだったとしても、決して友達になれるような関係ではなかった。母はほんとうに純な天然ちゃんという感じで、明るくて底なしに前向きだったけれど、わたしにははっきりと陰があったから。母は、そんな複雑な私を、何度も理解しようと考えてくれていたみたいだけれど、それはとても困難なことだったように思う。私と母は、特に最後は長く一緒に過ごしたけれど、一緒にいればいるほど、悲しいほどに違った。

 


私はそうやって、エネルギッシュな母から学ぶことばかりだったけれど、ごく稀に、私から母に、なにか学びのようなものを与えることもあった。本当に稀だが。そういう時はもちろん、私は得意げな気持ちになったのだった。

 


私がこうやって、日々のあれこれを赤裸々に記して、ブログとしてネットにあげるのは、私が私らしく生きていることを、知って欲しいから。でも、誰に?有名になりたいわけじゃない。だからたくさんの人に知ってほしいわけじゃない。

 


もしかしたら1番知ってほしいのは、母になんじゃないかと思う。

 


私と母は違う。母が思う幸せに、私はなれない。私は、母のようには生きられない。母と比べて体力も足りないし、圧倒的に私は精神的に弱くて、繊細すぎる。でも、私なりに、幸せでありたい。母に、たくさんの愛情を込めて育ててもらったからには、絶対に幸せになってみせたい。それこそが、わたしにできる最大の親孝行だ。それしかもう、天国にいる母にはしてあげることはない。シンプルでわかりやすくていい。

 

 


私は、自分らしく、幸せに生きたい。

 

 

 

 

年々、政治への不信感が募るある若者の備忘録

 


はじめに

 


2022年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 


月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 


自分の身体と心をもっと理解したいです。

 


#日記 #月経前症候群 #フリーター 

 

 

 

 

 

2月16日 午前10時40分

 


三月はライオンのようにやってくる。

 


今朝はまた、すごく冷え込んだように思う。マフラーはもういらないと思っていた先週であったが、今朝の冷え込み方は、寒かった先月までの冬を容易く思い出させた。どうやら衣替えにはまだ早いようだ。そういえば昨日の夕方、その日初めて外へ出てみたら、風がものすごく強くて、まさに冬に逆戻りのような寒さであったのだった。室内にいたから、窓から覗く日差しの様子からして、もう少し暖かいものだと思い込んでいた。だから晩御飯に、彼と共通の趣味のコラボイベントが開催されているココスまで行くのは諦めたのだった。

 

 

※以下、何の専門的知識のない一般市民が政治について所感を述べますが、どうかあたたかい目で見てください。


寒さで目が覚めたから、気分はイマイチ。小学生時代を思い出させる変な悪夢まで見た。目の下にはクマができていた。布団で微睡んだまま、いつもの癖で無意識にTwitterを開き、ぼんやりとタイムラインを眺めていたら、政府が新聞広告の欄で「貧困の子供のために支援をしましょう。子ども食堂や学習支援など」と国民に呼びかけている記事の投稿を見つけて、しばらくフリーズした。いやいや、貧困の子供を救うことは、まぎれもなく政府の仕事ではないのか?なぜこんな呼びかけを?(どうやら4年前になる、2019年の新聞記事だったらしいが…当時どんな事情があれ、それにしてもおかしい話だと思われる。)もちろんコメント欄は、私が感じたような違和感を、同じように感じた人々の、憤りをあらわす言葉で荒れていた。残念。また今日も釈然としない、妙に腹が立った嫌な気分で布団から出ることになってしまった。

 


最近は、政治に関する投稿と、それへのリプライでTLが盛り上がりを見せることが多い。その内容のほとんどが、政府が良い仕事をしたというグッドな話ではなく、残念なことに、このままじゃヤバい…人々の生活が、じわりじわりと政府の決定によって、脅かされつつあるようなバッドニュース、そんな危機感からくる投稿、なんとかしないといけないという呼びかけがほとんどだ。高校時代から、様々な分野のプロからアマから学生までのクリエイターをフォローしている私のアカウントのタイムラインであるが、政治の話は年々、目につくようになっていた。つまり年々、そしてここ数年は日々、日々、政治への不信感は、募るばかりだった。

 


Twitterでは大抵、相互フォローでも、有識者でもないのに我が物顔でコメント欄にいるようなやつや、プロフィール欄が胡散臭くて、聞いたこともないような肩書きを持っている独創的なやつは、何を投稿しても面白くないし、それどころか不快で、その上悪目立ちしているし、もちろん政治に関しても見当違いなことを言っている。しかしそれとは反対に、政治に関するツイートが増えたTLで、真っ当な発言ができる、賢明な一般市民が、想像以上にたくさんいることには、この混沌とした社会にわずかに希望が持てる気持ちになる。どのくらいこの声は政府に届くのだろうか。どのくらいこの声は大きくなっていくのだろうか。実際、誰もに届く場所でこの声が発せられたら、どれだけの人が賛同するのだろうか。

 


こうやって一定数、賢明な市民は確実におり、それに賛同するものも決して少なくない数であるというのに、例えばなぜ、選挙結果は変わらないのだろうか。

 

(選挙結果が変わることに、目覚ましく価値があるとも言い切れない現状であるのだが。よりはっきりといえば、変わる先がいない。現状で、選挙結果が変わるとはどういうことであるのか、変わってどうなるのか、想像がつかないから、残念なことに積極的に変われとは言いずらい。もはや白か黒かでは全くもって言い表せない複雑な社会であるというのに、なんだか、こと選挙や政治に関しては、例えば右翼か左翼かというように、二極の白黒志向でしか意思表現の方法がないような、その不自由さと的の得なさが、選挙や政治への無気力感と無関心を誘うように思う。詰まるところ、選挙や政治が持つ「決断する」という行為のそれが、ある程度の切り捨てを含んだり、複雑なものを単純化させなければならないような、一歩間違えれば暴挙になりかねないせめぎ合いの中で、活路を見出していく高い判断力が必要なのだろう。きっとそれは相当に高度なもので、当然、より複雑に発展した社会ではより高度な判断力と決断力が求められる。そういえば、岸田総理大臣(総理大臣と呼びたくもないような、頼りない空っぽのおじさんなのだが)が今年の抱負か何かで「決断力」と述べて、スピーディーな議決とか異次元の少子化対策とか言っては的外れなことばかりしていた最近の様子を見ると、あなたにはそもそも「判断力」がない、決断力という前に、判断力を養って出直してこい(いやもう帰ったらそのまま出てくるなと言いたい。特に息子は家に置いてこい。)少なくとも、決断を不自由などと表現するような私には決断力がないと言える。しかし政治の、言い換えれば決断の、プロであるはずの政治家が、こんなにもモタモタしていてはいけないと思うのは、そこに同情の余地は無いのだろう。)

 


賢明な市民が一定数いるように、社会の困難や弱者に無関心で、暗愚な市民だって一定数いるということなのだろうか。もしかしたら、後者が前者を上回る数であるから、社会が上手に変わっていかないのだろうか。まさか政治家こそが、後者の性質でもってこの国の第一線にいるとは信じたくもない。後者の市民が多いから、後者の政治家が最前線にいる状況は、残念ながら理にかなっている。最低でも今は頼りになる政治家がいないだけだと思いたい。

 


社会は遅々として、真っ直ぐには良くなっていかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そういえば今日は郵便局に行く用事があったのだった。12時半、少し外へ出かける。

 

 

 

 


今日は晴天。見上げると雲ひとつない清々しい青空が広がっていた。昨日ほどの風は吹いておらず、陽の光がじんわりと暖かくて、また少し先に春を感じる陽気に戻った。

 


木曜日の今日は、オープンしているお店が多かった。カフェ、紅茶屋、本屋、服屋、パン屋、雑貨屋、服屋、古着屋、珈琲屋、定食屋、お菓子屋、雑貨屋…。郵便局へ行ったその足で、近所を一周してこの充実したラインナップ。どれもチェーン店ではない、こだわりのある個人店ばかりだ。お金がない日も(今日も)ウィンドウショッピングで十分楽しめる。

 


私の住んでいる街は、カフェ巡りスポットとして、名が知られているような場所だ。都心にほど近いが、高層ビルや背の高いマンション、無機質な住宅街などはなく、寺町、下町であった江戸時代の風情が今に残っている。古い日本家屋がリノベーションされ、おしゃれなカフェになっていたり、路地へ入れば、昭和の息遣いをありありと感じる、生活感のある背の低い街並みがある。ほとんどの家の玄関先に、年季の入った鉢植え、そこに元気よく茂る植物たち、たまに季節を告げるような庭木すらあり、ベランダには洗濯物が並び、錆びた鉄格子の向こうにささやかな屋上庭園があり、その情緒ある景観が、私はとても気に入っている。いつだって街を歩けば、程よい賑わいと、人々の生活音があり、私は家族と田舎の山奥に住んでいた頃よりも、孤独を感じることがなく、いつも近所を軽く一周するだけで、簡単に息抜きができた。

 

 

 

 

 

 

アート作品見てたら蚊に刺された話/勇気を出してギャラリーに行った話

 

 

 


名古屋の旧商店街の古びたビルで、アート作品の展示があった。詳細は忘れてしまったが、確か予備校の紹介で手に入れたDMを頼りに、高校生の私はひとり、そこへ向かった。

 


夏だった。外は暑かったが、ビルの中の閑散とした感じに、年季の入った空調で心ばかりに調整された室温以上の、涼しさを覚えた。

 


南側に面した部屋の、日焼けて白っぽくなった真っさらな床に、無数のガラスの砂時計が置かれていた。

 


カラフルで、様々な形をした砂時計たちは、各々が各々に日の光を存分に浴びて、輝いていた。キラキラは単純に美しい。この作品にそれ以上にどんな美しさが、それ以外にどんな意図が、込められているかはわからなかったけど、なんとなくいいなと思ったから、写真を一枚とった。

 

他の部屋に向かう。

 


薄暗い部屋には、映像が流れていたが、その内容は覚えていない。

 


壁に絵画がかけてある、オーソドックスな部屋もあったが、どんな絵画かは忘れてしまった。

 


黙々と上の階に進んでいく。ある部屋に、大きめのビニールプールに、擬似的な池が作ってあった。水草がところどころに浮いていて、でも水に流れとかはなくて、はっきりとは覚えていないが、至極簡易的、至極人工的な、水溜りという感じだった。

 

そこで、私は蚊に刺された。突然腕の一点が痒くなって、すぐ目の前の池に、激しく心当たりを感じた。多分、いや間違いなく、この池で生まれた蚊に、ここで人間が来るのをしばらく待ち侘びていた蚊に、いましがた刺されたのだと結論ずくと、一目散に部屋から退散した。

 


あの池はなんだったのだろう。何ひとつ、池の意味はわからなかったが、はっきりいって、あの展示が失敗に終わっていることは(言い過ぎかもしれないが)わかった。だって、蚊に刺されて、(きっと一匹どころではない、たくさんの蚊があの部屋には生息している。水辺があり、日陰で(北窓の部屋だった)程よく涼しくて、たまにぼんやりと間抜けに突っ立つ人間もくる、蚊にとって絶好の生息地だった。人間からしたら地獄だ。)鑑賞どころじゃなかった。これはおそらく、作者の意図に反した事態のはずだ。きちんと作品が管理されていないことに、作者に対して、このビルの運営に対して、懐疑的に思い、少し腹が立つ思いになった。

 


気を取り直して、最後の部屋に向かう。部屋には、地域でアート活動をした、その記録が展示されていた。どうやらこのレポートを作った彼ら彼女らは、子供から大人までの街の多くの人々と、密接に関わっていたようだと、なんとなく映像的に思い出せる。子供には、何か手作りの講座のようなもの、観察日記のようなもの、アート的なアクションを起こさせたという内容。大人には、活性化とか、支援とか、人の輪を作ることを手助けするようなアクションを起こしたという内容。展示に行ったら、文字は、できるだけ読むようにしている。勉強してるからって、私だって、アートって、いまいちわからない。文字だよりだ。

 


帰りは、ビルの外壁に面した、鉄格子の非常階段から降りて帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高校生の時、たしか毎月5千円、お小遣いをもらっていた。大体2ヶ月に一回か、たまに間が空くから、正確には3ヶ月に約一回のペースで名古屋に行って、美術館やギャラリーを回った。

 


1ヶ月間お小遣いを使わなければ、2ヶ月経てば単純に1万円が貯まる。1万円は、大金だ。もちろん、きっかり1万円貯まることはなかったが、そうやって貯まった6千円か7千円かを財布に入れて、名古屋に行った。電車代と、美術館のチケット代、ご飯代、友達といった時には、他に映画をみたりしたから、そのチケット代、プリクラ代、カラオケ代、古着が好きだったから、ごくごく稀に服を買って、そうやって財布をほとんど空にしては帰った。

 


ルノアールとか、モネとか、ミュシャとか、ピカソとか、みた。家具とか、宝石とか、器とかも、見た。北欧とか、中国とか、古代とか、現代とか、特にこだわりもなく、色々みた。案外、地元の美術館で、日本の洋画とか、近代の日本画とか、味わい深いものをじっくりじっくりみることができた。松坂屋院展には、日本画を専攻していたからできる限り行ってみた。東京に行く機会があれば、必ずどこかの美術館にいった。友達と京都に行って、寺めぐりをした。そういえば、普段あまり会うことのない名古屋に住んでいる一個下の従妹と、2人で歌川国芳を見たりした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は高校一年生の秋に、東京藝術大学の文化祭に遊びに行ったことがある。好奇心旺盛、行動力のある姉に連れられて、尻込む私は姉を追いかけるようにして、校門をくぐった。

 


屋台とか、浮かれた匂いのするところは、大学生が怖くて、目を合わさないようにしてたから、全然覚えていない。でも上野公園のマーケットの通りは、好みだったから覚えている。似顔絵を書いてもらったし、ポストカードも買った。どうやら神輿とかサンバとかについては、全く記憶にないから、多分そもそもみていない。

 


芸大の教室は、白くて、明るくて、静かだった。白くて明るい箱に、作品がぽつり、ぽつりと置かれている。部屋から部屋へ、巡る。作品を、みる。心が落ち着いた。帰りに見返したら、日本画の教室で、1番多く写真をとっていた。1番好きだった絵も日本画だった。(その絵の作者さんのインスタは、それ以来ずっと追いかけている)だから私も日本画専攻にしようと、確信を持って決めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一浪の夏に、東京芸大の一年生(か二年生?)の、ギャラリーの展示へいった。そのころは巨匠とか、プロとかじゃなくて、学生の展示がとにかく見たくて、特に第一志望だった東京芸大生の、年の近い人の作品が見たくて、SNSを追って、初めて足を運んだ。

 


真夏の、カンカン照りの日だった。夏空と、アスファルトのあいだで、ひたすら焼かれた。駅から結構歩いた。東京って、結構坂が多いことを知った。ビルや、マンションの出入り口から排出された、キンキンに冷えた冷気に励まされながら、歩いた。

 


へとへとになて、ギャラリーについた。小さなギャラリーだった。小さなギャラリーに、小さな絵が、壁のアイレベルに沿って、小気味よく並んでいた。花だったり、熱帯魚だったり、虫だったり、月だったり、模様だったりが描かれている。

 


へとへとになて来た、見るからに幼い中高生風の私のことを気にかけてくれたのは、塾の講師にも一度だけ来てくれていた、別校舎の先輩だった。といっても、私が一方的に知っているだけなのだが。デッサンの先生が、彼のことをすごく気に入っていたし、私も彼の的確ゆえに簡潔なデッサンを尊敬していたから、私は彼のことを一方的によく覚えていた。

 


他にも芸大生が4人ほど奥にいて、男女入り混じりワイワイしていた。ちょっと怖い。〇〇塾××校だって!と私のことを話題にはあげていただいたものの、特に縁のある先輩はおらず、鎮火。

 


ちょっと、生意気なこといってしまうが、なんだか、私これ描きましたとか、簡単でも一言、絵の前に立って何か話すくらい、作者だったらしてもいいんじゃないかと、奥でワイワイしているのを見て、ほんの少し思ったりした。当時、私は大学という場所が、多くの若者たちにとって、純粋に学問を極めるために行く場所ではなく、将来少しでもいい会社に就職するための切符をもらう場所であるような、ともすると惰性的で、無駄に贅沢な場所であることに嫌悪感を抱いていた。

 


もちろん、私は想定されたお客じゃないのだろう。だから無視。どう見ても、絵は買わないだろうから。

 


ギャラリーという場所に、社会見学に来るだけでもいいのかと、出会い厨だと思われてしまうのではと、それなりに抵抗を持ちながらも、勇気を出して来たのだ、わたしは。暑かった。へとへとだ。別に、期待外れとかじゃないけど。

 


ただ、お客だろうがそうじゃなかろうが、人に自分の絵をすぐそこで見てもらっているのに、無関心なのは… どうなのだろう。わからないけど、もし私だったら、相手がたとえお客じゃなくても、作品を見られるのだから、その反応が気になると思うけど、いや、大学生になって、浮かれてて、友達付き合いに夢中になっている未来の私の姿も、想像できなくもないから、あまり言いすぎないようにしよう。

 


最初に私のことを気にかけてくれたその先輩は、結局最後までこちらに顔を出して、様子を伺ってくれた。たしか、塾の話とか、絵の説明も簡単にしてくれたと思う。とってもとっても、真面目な人なのだと、感心した。

 


私は、もし大学生になったら、彼のようでありたいと思った。

(その真面目な彼のインスタは、それからずっとチェックし続けている。最近、彼に親切にしてもらったそのギャラリーで、彼の個展があった。個展は盛況で、作品も何点か売れたらしい。活躍されているようで嬉しい。しかるべきように物事は進むのだと、ひとりで満足する。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


…4、5年、高校生の時なら6年も前のことだが、意外と覚えているものだ。きっと、都度写真をとって、たまに見返したから、記憶に残ったのだろう。(もう随分前にそれらの写真は消失しているが。)

 


しかしきっと、こうやって結構思い返せるということは、どれもなかなかに面白い展示だった、ということなのかもしれない。

 

 

 

 

 

春の匂い

はじめに

 


2022年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 


月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 


自分の身体と心をもっと理解したいです。

 


#日記 #月経前症候群 #フリーター 

 

 

 


2023年 2月1日

 

 

 


深夜3時。8時間寝て目が覚める。やっと体が楽になった気がする。布団に横になりながら、今日をどんな日にしたいか考えた。買い物に出掛けて、何かおいしい料理が作りたいなと思った。食欲や心の落ち着きが、やっと正常に戻ったのを感じた。この1週間、目覚めと共に体の不快感に悩み続けた。心がザワザワと落ち着かず、原因不明かつ解消しようのない、漠然とした苦しさ、寂しさに襲われ、何をしても、心が急いていた。

 


まだ朝は先なので、とりあえず日の出まで時間を潰すことにする。作ってから数日経ってしまったが、残り物の最後の一杯のポトフに、すっかり固まってしまったお米を混ぜて、レンジで温めて食べた。日が昇ったら、まず溜まりに溜まった洗濯物を洗って干して、それから買い物に出かける。

 

 

 

 

2月7日

 


やっと、体調が落ち着いた。

 


昨日一昨日は、久々にじっくりと机に向かうことができた。新しい絵を描いたり、絵日記に色を塗ったりした。休日で、洗濯を干したり、部屋を掃除したり、買い物にもいってたくさん食材を買い、朝昼晩と三食料理もできた。

 


先週は特に、読書の世話になった。月経が終わったというのに、肩こり所以の頭痛が治らず体もだるかったから、あまり今詰めた作業はせず、なるべくリラックスできる環境を選んで、好きな飲み物を用意して、本を片手にゆっくりと過ごした。

 


二日間連続で海に行った肉体的な疲労があったのかもしれない。前述したように、精神的にはかなり充実していたから、読書には励めた。海に行ったことは、脳の良いリフレッシュになったようで、いい意味でぼんやりと過ごすことができた。しかし、休日前に退勤して帰宅後、鏡を見たら、驚くほどに顔面蒼白で、目の下にはくっきりと青いクマができていた。すぐにお湯に浸かった。肩が凝って、体が疲れていた先週は、湯船に浸るのが、いちばんのリラックスになった

 


そうだ、私は海に行ったのだ。先週、始発の電車にのって、海に行ったことを、もうすでに忘れかけていた。海に行って、取り戻した心の落ち着きは、1週間で失いかけていた。

 


また、中学の頃から続く、心が不安定で、漠然とした焦りに決断や行動を支配されるネガティブな思考回路に陥り始めていることに、こうやって日記を書いているうちに、今気がついた。

 


海を思い出さねば。私は確かに海を見て、それからも、心に海を思い出すことで、何度も安定を取り戻していた。一切の焦燥感をすて、うまくのんびりできていた。あの海を忘れてはいけない。

 

 

 

 

 


マフラーを巻かずとも外を歩ける気温になった。手袋は、もう昨日の時点ですでにいらないことに気がついた。いつもはレッグウォーマーを仕込んでいたが、今日はなくても大丈夫そうだ。

 


以前より、ぐんと春の匂いが増した。春の匂いとはなにか。枝先いっぱいに実った蕾から溢れる花の蜜の匂いだろうか。土がホカホカと蒸れる匂いだろうか。

 


ビルの影に入り、冷たいビル風が吹く中は、春の匂いがしなかった。春の匂いとは、アスファルトかコンクリートかが、たとえば5度から15度といったやや低温から常温に上昇する際に発生する熱の匂いなのかもしれない。

 

 

 

 

 

鬱陶しい。着こまねば寒いが、始終暖房をつけるほど極寒でもなくなった、うっかりすると体が冷え切っているような意地悪い寒さの室温に苛立つ。私は肩が凝っているのだ。肩こり所以の頭痛が治らず、かれこれ2週間も経つ。

 


南国に行きたい。無造作に一枚の布を見に纏い、肌を大胆に露出させ、燦々と照る太陽を浴びて、裸足で生活する南国で暮らしたい。ああ、何重にも纏った衣類が鬱陶しい。肩が詰まる。首が回らない。背中が重い。

 


昨晩、珍しくビールを飲んだ。海を見てから、なんだかやけに誠実に、穏やかに、おとなしく生活しすぎていることに、どういうわけか不安を感じた。いやただ、退屈になってきただけなのかもしれない。それか、そろそろ退屈を感じる予感がしたから不安になったのかもしれない。普段は酒といえばチューハイばかりだが、だから今日はビールの気分だった。クラフトビールなら飲める。昨日今日は一日中机に向かって、絵を進めた。そのご褒美にお酒を飲もう。晩御飯は鍋にした。ひと缶飲み干して、レモン杯も少し飲んだ。完全に酔っ払って、子供みたいに彼に甘えた。

 

 

 

 


目が覚めた。歯も磨かず、風呂も入らず寝て、内臓もなんだか消化不良な感じで、気分は悪かった。昨晩、直感的に酒を飲んだ方が精神に良い気がしたのは、見当違いだったのだろうか。仕事に行くのが億劫に感じた。しかしそれにしてはまだたっぷりと時間があった。

 


小一時間布団でゴロゴロとしたら、部屋を片付けた。食べ残したままの皿を洗って、朝食の準備をした。生ゴミをまとめて、流しを軽く磨き、床にコロコロをかけた。少し休んだら、顔を洗って、身支度を整えた。普通に暮らせば良いのだ。普通に、淡々と。

 


なのに、それがやけに面倒くさくて、ものすごく退屈に思う時がある。普通の生活を、淡々と繰り返すことを、気味悪く、怖ろしく感じる時がある。

 


こんなにも平凡でいいのだろうかと、普通の幸せというものを、つい疑うときがある。弾け飛ぶような快楽を、変化に富んだ新しい日々を、ただ平凡な日々から抜け出す手段として、どうしよもなく求める時がある。

 

 

 

 

 

もう一度、海へ

 

 

2023.01.31

 

 

もう一度、海へ

 

 


どうしても、もう一度、夜明けの空に浮かぶ富士山が見たかった。願わくば今度は、地平線の先で小さく横たわる山脈の中で、真っ先に朝日を浴びて、ジリジリとそのシルエットを明らかにさせる、日の出の富士山の全てを見たかった。真っ暗な空と海が、時間をかけて、刻一刻と明るくなっていく様子が見たかった。

 

 


昨日は、出かけ際に勇佑を誘ったら、始発を逃してしまった。昨日の私は、彼が誘いに頷いた瞬間から、気分は完全にデートモード。彼とのお出かけが嬉しくて、浮かれ有頂天で、始発を逃したことは大して気にしなかった。横浜駅で乗り換えて、電車に揺られているうちに、乗り換えの横浜のホームではまだ真っ暗だった空が、既に明るくなっていることに気がついた。逗子駅に着いた頃には、すっかり朝焼けが始まっていた。海岸が見えてくると、いてもたってもいられず、彼を置いて私は駆け足で海へ向かった。

 


海岸を東へ歩くと富士山が現れた。その頃にはもう、富士山には完全に朝日が当たりきっていた。もしもう少し早く、この海岸から富士山が見えることに気づけば、景色の中で真っ先に陽光を浴び、段々と色を変える富士を見れたかもしれなかったのにと後悔した。(あまりにも悔し過ぎたから、富士山に惑わされず、じっくりと海と空を感じられたから良かったとする)

 

 

 


だから今日もういちど海に行くのは、そんな富士山の、今度こそ一部始終を見ることが目的である。いや、実際はそれだけが目的ではない。私はやはり、一人で海に行くべきであったと思った。もちろん昨日、最高の景色を大好きな彼と共有できたことは、幸せ以上の言葉では表現できないほどに嬉しいことだった。二人で出かけたことに微塵も後悔などしていないが、昨日は昨日、今日は今日で、私は別の海を、心に刻みたかった。一人で見た海を、心に刻みたかった。なんなら上書きしたかった。なぜなら、昨日のそれは、はじめに私が求めていたように、たしかに見事に非現実的なものだった。桃源郷か楽園とでも呼ぶべきその光景は、現実味など一切感じなかった。しかしそれは非現実でありながら、あまりにも理想的過ぎたのだ。それは、残酷に、むしろ現実を突きつけた。美しすぎる景色を、大好きな彼と見た最高の瞬間は、現実の延長線上に、現実の1番頂上にあった。非現実的でありながら理想的すぎたそれは、私の本当に求めるものではなかった。

 


天気は昨日の方がいいようだ。昨日は、急な思いつきだったのにも関わらず、雲一つない晴天のお天気で、風もなく、絶好の日だった。始発を逃したことに目を瞑れば、何もかも完璧だった。完璧すぎて、わたしは終始大興奮で、最高に浮かれていた。

 


今日は、ひとりで海に向かう。昨日より、電車の時間が長く感じる。昨日も通った、同じ道であるにもかかわらず、昨日以上に何度も乗り過ごしていないか確認する。無事に海につけるか、やけに緊張感がある。もしかして、海に着いても思ったようなものが得られず、なんだか落胆して、ただ疲れ果てて帰ってしまうのではないかなどと不安になる。

 

 

 

昨日は、隣に座る彼と、肩と肩とを密着させ、お互いに本を読んだり、思い思いに旅路を楽しんだ。電車の揺れに合わせるように心を踊らせ、ただのんびりと海へ向かった。今日は、体はこわばっていて、少し寂しい気持ち。本はたくさん読んだ。新しく届いた、20代に得た知見と、食堂かたつむりの続き。だけど、ちょっと心がざわざわする。なんだか、読むほど、自分に還元できているかと不安になった。つまり、あまり読むコンディションが整っていないらしかった。心から本を楽しんで読めなかった。ただ自分に何か変化が起きないか、自分がもっといい方向に変われやしないかと、貪るように読んだ。だから、苦しくなるばかりだった。

 


ああ、いよいよ逗子に着く。あと一駅だ。よかった、ワクワクする。緊張が解ける。やっと着いた。苦しかった。ここまできたら、あとは浜辺まで歩くのみ。まだ外は暗い。何と言っても、朝の6時前だ。5時50分。

 

 

 

昨日は、電車から降り、淡色の空、珍しい海辺の街並みに大興奮だった。はやる気持ちが抑えられず、海岸まで住宅街を走って抜けた。そうやって、興奮をぶつけたり、思いっきり分かち合える相手が昨日はいた。今日は、ワクワクを分け合う相手がいない。叫びたい声を抑えるようにして、喉の奥から込み上がるはやる気持ちを、キュッとこらえて真っ暗な道を歩く。昨日は、海風にさらされたのか、漂白されたように白い、海辺ならではの街の風景を楽しみながら歩いた。しかし今日のような暗闇の中では、街並みが白いなど知る由もない。控えめな街頭、信号機の灯りと、つきあたりにあるコンビニの灯りのもとでは、この道は、どこの街とも変わらないありふれたもので、私はただ真っ直ぐに、黙々と海に向かって歩くのみだった。

 

 

 

 


海に着いた。ドキリとした。底なしの暗闇から、白波が、おいでおいでとこちらを誘うように、繰り返し現れては消えた。そこに海があることを知らなければ、吸い込まれてしまうような漆黒の闇が目の前に広がっていた。まだ岐阜の山奥で住んでいた頃に、夜になると月明かりに照らされた山が、ただ真っ黒なシルエットになって、こちらに覆い被さる様にして迫ってくる恐ろしさと、同じ様な恐ろしさを感じた。

 


空がわずかに明るくなり、海と空の境界線が見えるようになった。色彩のなかった黒い海が、彩りを帯びた。初めは淡く紫色に。次第に、海は空の色を映しながらも、日の光を反射させ、他の景色よりわずかに発光するようにして、独自の色を放った。

 


雲が出ていた。だから、昨日のように真っ直ぐには空も、海も、明るくなってはいかなかった。日の出の時刻を過ぎても、海も空も、曖昧な中間色をその場に留めて、ただ波だけがゆらゆらと揺れた。

 


その、曖昧な中間色というのが、またなんとも美しかった。ほんの少しグレーがかった、くすんだ海の色は、青にも、緑にも、透明にも不透明にも、どの様にも解釈できた。気まぐれに、雲の隙間から見えたピンク色の朝の淡い空色を、反射させるわずかな色彩も美しかった。

 


私は今日、見たかった海をちゃんと見ることができた気がして、安心した。確かに昨日ほど、今日は完璧なお天気ではなかった。したがって昨日ほど、宝石のように輝いた海ではなかった。だけどなんだか、私はそんな今日の曖昧な海に、納得した。私は海を見た。どうしようもなく退屈を感じで、非現実を求めて、始発の電車に乗り、真っ暗闇の海岸に辿り着いた。目の前に広がる海と、一緒に朝を迎える、そんな非現実的な時間を過ごした。海は、美しかった。曇り空でも、美しかった。朝を迎え、その姿を徐々にあらわにさせていった海が、同時に私をゆっくりと現実に引き戻していった。完璧じゃなくたって、何色をしていなくたって、美しい海が、複雑で、曖昧な現実を、それでも美しいんじゃないかって、私に受け入れさせていくように、優しく揺れた。

 

 

 

 

 

 

おまけ 帰路

 

 

 

大船から乗り継ぎ、快速電車は横浜、川崎、品川を抜けて東京へと向かう。

 


逗子駅前のスターバックスで通勤ラッシュが過ぎるのを待った。8時を過ぎてもまだ人通りは絶えなかった。大慌てで改札に飛び込む学生がちらほら。知らない街の知らない駅前で、平日の朝を過ごす。これにはなんとも言えない贅沢な気持ちになった。今日は正午から仕事があるので8時半には店を出ようと決める。

 


電車は混んでいた。これが関東、首都圏の日常なのだろう。多少ピークからは時間をずらしたので、ぎゅうぎゅう詰めではなかったし、うまく座れもしたが、とにかく息が詰まった。初めは吊り革に捕まって、満員の車両の一画で、息を殺して電車に揺られた。勢いよく流れゆく横浜近郊の工業団地、ベッドタウンを眺めると、つくづく人間とはどこにでもいるものだと他人事のように思った。ここでどんな人がどんな暮らしをしているのか、淡く興味を抱くが、例えば実家のある岐阜の、三菱やらカルビーやらの工場付近の街並みと似ているので、あのあたりの人々と生活は変わらないのだろうななどと、自問自答する。

 


ここ最近の昼夜逆転生活の影響で、おそらく自律神経が乱れているのだろう、かなり頭痛がする。もしくは、インナー2枚にニットのセーター、カーディガンにコートにマフラー、重装備につき、肩こりが酷いのだろう。ああ早く家に帰って、思う存分ストレッチがしたい。

 

 

②高校時代

 

 

 

 

 

 

 

 


生い立ち① 中学時代より

 


「平凡でも、自分に「絶対的な」価値を見出せる大人になりたい。私はその思い一心に、ナンバーワンではなくオンリーワンな自分になるべく、美術科の高校に進学した。」

 

 

 

 


はずだった。

 

 

 

 


②高校時代

 

 

 

高校時代、私はこれ以上傷つきたくなかった。中学時代の友達との不和、学生という身分でする恋愛の徒労な感じ、漠然とだが強く社会に出ることを恐ろしく思う気持ち、逃げるようにレールを外れることしかできなかった不健康な自分への自己嫌悪、そういった自己評価の低さ、自信のなさ、学校への不信感…

 


私は、これらの鬱々とした気持ちは、思春期特有のもので、20代になる頃には自然と消え失せるものだと思い込んでいた。

 


だから高校生活は、ただ問題を起こすことなく、不登校にもならず、成績不振に陥ったりせず、どれだけ苦しくても不安でも10代とはそういうものだと言い聞かせて学校へ行き、あと3年間、耐え抜けば、きっと普通の大人になれる、そんな気持ちで、これ以上病んでしまわないように、できるだけ傷つかないようにと非積極的に、本来持っていた明るくて溌剌とした面というものをほとんど押し殺し、気分が最悪な日もゾンビのようにして通った。

 

 

 

私と絵

 

 

 

前回から(①中学時代より)重ね重ねの表現になるが、私はそうやって、社会の複雑さ、かつ社会をどうすることもできない自分の非力さ、そんな社会に出ることの恐ろしさ、私をさらに自己嫌悪に陥らせるような面倒な人間付き合い…、私を不安にさせるあらゆる雑音に耳を塞ぐかのようにして、絵を描くことに没頭した。

 


高校で絵を描くことを学び、絵を描くことだけに没頭できた時間は、私の救いだった。毎日絵を描くという、目にみえる研鑽の行為は、私に安心感をもたらした。一進一退はあったものの、日々描いた絵は、その時々の自分の成果物として、自分の存在価値を見失いかけていた私には欠かせないものになった。それに、絵が描けるという個性は、きっと将来の役にたつという期待が、社会に出ることを恐れていた私を励ました。

 


しかし、絵を描くことが、ただ純粋に楽しくて安心できる救いの行為であり続けたのは、大学受験が始まる前までだった。

 

 

 

 


落胆

 

 

 

高校進学と同時に、私を溺愛してくれた大学生の姉と二人で、県内で1番大きな市で暮らし始めた。私は、私を鬱々とさせる原因を、社会に出ることを恐ろしく思わせる原因を、可能な限り、取り除けられるものであれば、取り除きたかった。あの山奥にいることは、私を不健康にさせる環境要因に十分なり得た。もしそうならなかったにしても、少なくともはっきりと言えたことは、あの山奥にまた三年も居続けたら、大人になった時、たらればと、何かうまくいかないことがあるたびに、あの山に生まれたことを、あの山で18まで世間知らずのまま籠の鳥にさせられていたことを、世間一般の大多数の人々とは少し変わった環境で育ったことを、なんの躊躇もなく言い訳として、後悔として口にしただろう。それがすごく嫌だった。

 


失敗したって、それが自分で決めたことなら構わないだろうと思った。だからできる限り、人生の選択は自分の意思で成り立たせたいと、15の時点で私はこれからの人生の歩み方を強く考えていた。まずあの山奥から出ることは、私が私の足で人生を歩むために必要最低限な条件だと考えた。そして、少しでも都会に住みたかった、あんな山奥じゃなくて普通の街に住んでみて、それで初めて、自分が異常なのかどうかわかる気がした。普通になりたい。ちょっとクラスメイトより机に向かう時間が好きで長いだけで、ちょっと集中力があって呑み込みが早いだけで、ちょっと運動が得意なだけで…何もかも簡単に1番になれるような社会の常識から逸脱した狂った環境にいることには、もう耐えられなかった。願わくば高校では埋もれたかった。なんの取り柄もない、平凡で中間の人間になりたいと、心から望んでいた。

 

 

 

しかし結局、思ったより高校でも私は優等生だった。埋もれなかった。学校は、私にとって易しい環境だった。願いに反して成績は上位のままだった。成績さえ上位なら、学校という環境では簡単に特別な可能性を持つ人間になれてしまった。私は自分が嫌いだった。それが偽物の特別だと分かっているのに、ちゃっかりその特別に安心している自分が嫌いだった。

 

 

 

逃亡

 


私と絵

 

 

 

しかし、絵を描くことが、ただ純粋に楽しくて安心できる救いの行為であり続けたのは、大学受験が始まる前までだった。

 


2年生も後半に差し掛かれば受験を意識しざるをえなくなった。競争が始まった。また進路も考えなくてはならなくなった。私は焦った。この頃の私は、まるで喉の奥でぐっと叫びたい衝動を堪えているような状態で、刻一刻と近づく、社会に放り出される瞬間を恐れ、なんとかしてその時を先延ばしにしようと必死になった。私は自分の勘違いに気がつきはじめていた。私は、今抱いている鬱々とした気分は思春期特有のもので、歳を重ねれば自然と薄れるものだと思っていた。ただ今は、耐えているだけでいいと思って過ごした。なのに、一向に、自分が健康的になっていく気配はしなかった。

 


私はまだ、14の頃から抱き始めた、出どころはわからないが確かに自分の中のどこかから湧き上がる、不穏な気持ちに、漠然とした不安や葛藤に、1ミリだって解決の糸口を見つけてはいなかった。

 

 

 

生い立ち①中学時代より抜粋「〜…この後私が進むべき1番平凡で幸せな道は、まずなるべくいい大学に進み、なるべくいい会社に入り、自立することだと分かった。大事なのはここからである。そして「仕事ダリィ行きたくねぇ」とTwitterに書き込みながらも週5で仕事にいく。お給料でオタ活したり、休日に遊びに出かけるのを生き甲斐とする。日曜日の夜にはサザエさん症候群になり、月曜日が来なければいいのにと何度も願いながらも争うことはできずまた仕事にいく。これを何十年も繰り返す。というなんともつまらない未来が、やけに鮮明に思い浮かぶようになった。社畜という言葉があることをTwitterから学んだ。こんな未来はどう考えても退屈すぎるのだが、でもこれこそが、私の求める普通の幸せらしいのだ。というのもこれが今社会に生きている大多数の大人たちの実情で、平凡に幸せであるとはこういうことなのだ。漠然と、私も普通に幸せに生きられればいいと思っていたのだが、こんなのが普通の幸せなのかと思うと、何だかゾッとして、大人になりたくないと真剣に思い悩む様になった。……」

 

 

 

今思えば中学から高校に上がった程度で、たいした新しい経験も積まず、それどころか自分の殻に篭り、失敗を恐れて消極的に生活していたので当然なのだが、私は18になっても、そうやって14の時と変わらず、社会に出ることに対して、もっと大きく捉えれば、この世界で私が生きていくということに対して、漠然とした酷い不安に襲われて、眠れない夜を多々過ごしていた。私はやはり何か精神的な病気なのかもしれない、いやこれは甘えだ、こういう性格だ、だとしたら治さなければならない…。また延々と、出口の見えない孤独で惨めで無様な自問自答が始まった。

 


だからといって、今から思い切って、この不安や葛藤を、根本的に劇的に解消しようと試みることも、18の私には憚られた。きっといざそうやって、その喉元に大胆にも触れてしまえば、18の私はその瞬間、確実に絶叫して、プツりと何かが切れて、何もかもダメになってしまうような気がした。というのも、今までだってそうだったのだ。なぜああやって絵に没頭したのか、なるべく傷つかないようにと、自分の殻に必死にこもったのか、それは今この不安に正面から向き合って、立ち止まってしまったら、きっとしばらく一歩も動けなくなる気がして、立ち止まれなかった。つまり、はっきり言って私は高校に上がる時点で、不登校一歩手前だった。本当は15歳の時、少し休みたかった。私の中に湧き上がって消えない不安だけに、ただ向き合ってみたかった。幸か不幸かそれは許されなかった。そうやって私の喉元に潜んだ絶叫は、拗れていった。

 

 

 

 


優等生であり続けてしまったこと

 

 

 

私が成績を維持するために、特別にすることはなかった。ただ先生に言われた通り、予習復習をこなす、小テストがあるならその範囲を勉強しておく、テスト前なら家にこもってテスト勉強をする、そうやって与えられたことを与えられた通りにするだけだった。そうやってどんな物事も、与えられた通り、真面目にこなすことができる、真面目にこなすことしかできない、ただ真面目なだけの自分が嫌いだった。そのただ真面目でいることが、学校という環境ではものすごく高く評価されたことに、もどかしい気持ちになった。私にとってはそれは、特別でもなんでもなく、最低限のことにすぎなかったのに。

 


褒められても、正直に、最低限のことをしているだけですと答えたら、先生には流石に笑われてしまったが、不幸なことに、そうやって頑なに真面目だった私は、多くの大人たちに歓迎され、学校というシステムに歓迎され、デッサンという研鑽の行為に歓迎され、結局、美術科クラスで絵までが成績上位の優秀な人間になってしまった。その災難は、私をそれから長く苦しめさせることになる。

 

 

 

 

周囲から受ける私への高い評価と、私が私自身に下す低い自己評価のギャップに苦しんだ。周囲から高い評価を受ければ受けるほど、私のプライドだけが高くなり、肝心の自己肯定感は下がる一方だった。

 

 

 

 


平凡であり、特別でありたかった

 

 

 

何度も言うが、私は高校生になって都会に住んだら、大勢の子供のなかで、自分の個性や能力なんて埋もれてしまって、なんだ私ってこんなものか、田舎だったから私はすごかっただけだと、自分の平凡さに一度、打ちのめされてみたかった。成功体験ばかり積み上げて、歪んだ環境で得た高すぎる自己評価を壊してしまうことが、私を今すぐに健康な子供に戻して、健康な大人へと道を歩ませる、最も有効な解決策だと思っていた。だけど高校に上がった時点では、まだそれは叶わなかった。

 


ただ平凡であることに打ちのめされて、その平凡さをあるがまま受け入れてさえしまえば、もう私は自分の可能性とか、人よりも優れた能力とかを信じて、頑張ることを諦められたはずであったのに。私は大したことないから、なんの取り柄もない人間だから、普通に暮らすしかないんだと諦めて、普通の大人になることを受け入れられたはずだったのに。

 


私の話の矛盾点を指摘すれば、本当にただ埋もれたかったのなら学力の高い普通科高校に行けばよかった。でもそれはできなかった。私は平凡にもなりたがったが、それ以上にオンリーワンになりたかったから。だけどその方法は、まだ手探りの状態だったから。ナンバーワンのなり方は知っていけど、オンリーワンのなり方はわからなかったから。私は弱くて、ずるくて、自分で自分を愛せないくせに、プライドだけはすごく高くて、周りからの評価もちゃんと気にするし、高校生活中、ただ埋もれてしまうだけでは、惨めで、1日だって生きてゆけない気がした。その上、私は馬鹿で、ただ熱心に絵さえ描いていれば、漠然とオンリーワンになれる気がしていた。そうやって深く考えようともせず、とりあえずわかることを優先して、つまり、またナンバーワンは最低限目指して、不安になった時に、自分で自分を慰めて安心できる居場所として、相対的な特別を、確保し続けていたことが、私の学生生活を、労力のわりに身に成長のない、つまらないものにさせていた。

 

 

 

特別であり、平凡でありたい、その二つの願いは、当時の時点では相反するものに私には思えた。私はその相反する二つの理想の間で葛藤しながら、学生時代を過ごした。

 

 

 

私はずっと、自分を見つけられずにいた。平凡で特別な、愛すべき自分を見つけられずにいた。もしもこの不安定な状態のまま、私にとって易しい学校という環境から、私にとって未知で、きっと厳しい社会という環境に放り出されてしまえば、私はただ社会の荒波に揉まれて、身体を引き裂かれて、死んでしまうか、死にきれなくてもがいて苦しんで、耐えきれず、自分で自分を殺してしまうと思った。学校にいれば、まだ自分で自分を慰められて、正気を保つことができた。穏便にやり過ごすためには、また問題を先延ばしにすることしか思い浮かばなかった。私は何度も逃げる方を選択してしまう。そうやって案の定私はその後、東京芸大受験を口実に、二浪することになる。

 

 

 

 

 

 

オンリーワンになるって何。

 

 

 

高校3年生の秋に、決定的に打ちのめされる事件があった。私はこの学校に、絶対的な価値を求めて来た。絵を描くという行為を繰り返し、研鑽を積めば、その先には自然とオンリーワンな自分が形成できると思っていた。

 


しかし、そう簡単にはいかなかった。私は卒業制作で、森の中の絵を描いた。院展系の作家さんの画面の雰囲気を意識して、着想は菱田春草の落葉、手塚雄二さんのスケッチを参考にした。大きな画面に挑むから、一手一手逆算しながら失敗のないように確実にかいた。そのどれもが、自分のオリジナリティーを表現しているとは到底思えない行為だった。私は、美術大学に行くのに相応しくない人間であることを、もう覆しのないほどにはっきりと、その絵を描き終えて感じた。

 


前々からその不安は感じていた。美術科に進学したものの、美大に行きたいと思ったことがなかった。私は特別絵が好きで得意というわけではなかった。勉強も好きだったし、運動も得意だった。絵もその一つに過ぎなかった。確かに私は熱心な生徒だったし、こんなふうに絵を描くことに対してネガティブな言葉を並べる私を知ったら、当時の優しいクラスメイトたちはもしかしたら悲しく思いさえするのかもしれないが、私は、直視したくない現実から目を背け、卒業するまで穏便に時間を稼ぎたいという消極的な原動力で、異様なまでに絵に没頭している愚かな人間だった。

 


母はそのことに気がついており、早くから私に普通大学を進めていた。同時に母は、私の葛藤や、悲鳴を堪えたその喉元に、迂闊に触れてはいけないことも知っていた。母以外の家族は誰も、私の進路に全く口出ししなかった。興味がなかったのか、成績優秀な私を信じて任せていたのか知らないが、だから最終的には母も私に任せるようになり、私は自分の思うがままに、ほとんど去勢で美大を目指した。

 

 

 

先に書いた通り、私は、特別であり、平凡でありたかった。平凡になることは簡単だった。頑張らなければいいだけだ、適度に手を抜くだけだ、与えられたことをせず、不真面目になるだけだ。だけどその中で特別になるには、どうすればいいかわからなかった。私は頑張ることしか知らなかった。

 


特別のなり方がわからないまま、ただ手を抜いてしまえば、私は単純に、落ちこぼれるだけだと思った。もっと言えば、手を抜かなくとも、頑張れば頑張るだけ評価されるとは限らない社会という環境に出れば、私は自然と落ちこぼれる可能性があった。私は落ちこぼれたことがなかったから、それがすごく怖かった。

 


落ちこぼれてしまえば、私は今よりももっと、自分で自分をどう愛せばいいか、わからなくて途方に暮れるだろうと思った。それを思うと、やっぱり、絵が描ける個性が私には必要だった。絵を描くことが私の取り柄になると信じた。絵が描けるという人と違った個性が、周囲の誰からも評価されなくなった時に、私が私を自分で特別だと思える、私の絶対的な価値になってくれるはずだと信じた。

 

 

 

 


でも、はっきり言って、今の私が美大にいっても、誰かを模倣するか、誰かの美の基準に準じた、個性の全くない、何番煎じの絵しか描けない。

 

 

 

 

 

 

高校三年の秋の回想に戻る

 

 

 

でも、はっきり言って、今の私が美大にいっても、誰かを模倣するか、誰かの美の基準に準じた、個性の全くない、何番煎じの絵しか描けない。

 

 

 

高校三年の秋、卒業制作を終えて、そう思うようになってから、私はデッサンが思うように描けなくなった。ノウハウとか参考資料とか、そういうのが悪にしか思えなくなった。先輩の絵に憧れ、近づきたいと必死になっていたそのモチベーションが崩れた。何を目指して描けばいいのかわからなくなった途端、頭にモヤがかかり、全く筆が進まなくなった。目指す基準、模倣すべき参考資料がなければ絵が描けない時点で、本当に私は絵を描くのに向いていないのだと、取り返しようのない後悔のようなものに苛まれた。高校の選択を間違えた気さえした。20にもなれば自然と普通の大人になれるという頭の悪い思い込み、だからその場しのぎができればいいなんていう短絡的な考え方はやはり甘かったのだと、自分の愚かさを責めた。

 

 

 

高校生活を終えた。私の想像ではこの瞬間、思春期の苦しみから解放されるはずだった。普通の大人になるはずだった。私の喉元にはまだ、誰にも聞かせられない、でも本当は誰かに聞いて欲しい、かといって言葉にはできない、どうしようもない絶叫が張り詰めていた。臆病な私は、まだその喉元に触れることができずにいる。もしも少しでも傷ついて、張り裂けてしまえば、私は悲鳴をあげて、地に叩きつけられて、再起不能なまでに落ち込んでしまう予感がした。そうなったら、本当に惨めで、情けなくて、もう頑張ることができない。頑張ることしか、今の私にはできないというのに。

 


私は再び、傷つかないために逃げる方を選択してしまう。私はこれから美大受験のために一浪する。

 

 

 

 


私は、私の絵に今はオリジナリティーがなくたって、もっと勉強すれば、いつかは私なりの絵が描けるようになると信じた。もしもそうやって努力した結果、私なりの絵が描けるようになったら、それは完全に特別な私になれたということだ。そのシンプルさ、その単純な思い込みに、絵に、私の価値の全てを預けた。これは間違いなく私の逃避行動だった。私は頑張ることしか知らなかった。そんな私にとって、熱心に描けば描くほど成熟する絵画は、ゆりかごのように居心地のいいものだった。また、頑張ることしか知らない私にとって、頑張ることが推奨され、頑張れば報われる可能性が大いにあるとされた美大受験という環境は、頑張りが報われるとは限らない、ゴールのない社会に出るよりはるかに易しい環境だった。幸か不幸か、クラス内のコンクールで上位だったこと、賞を取ったこと、家族が健康で、家計に余裕があったこと、何もかも恵まれた環境が、私の現実逃避を加速させた。

 

 

 

 

 

 

 


過去を悔いてもしようがない。今置かれた状況で最善を尽くすことしかできない。最低でも、今できることは全力でやる。19の春もその方針で始まった。高校時代、何度もそう言い聞かせては邁進してきたおかげで、成績は安定して優秀だった。私は哀れなほどに努力家だった。そうやって哀れでも、優秀で努力家な私ならきっと、東京芸大に受かる気がした。どれだけ本当の自分が弱くて醜くて哀れだろうが、周囲の大人は私の熱意や努力を歓迎し、高く評価してくれた。私は頑張ることしか知らない。私は頑張ることなら知っていた。頑張ることだけには自信があった。

 

 

 

(こうやって、頑張れば報われるという、せめて学生までしか通用しない単純な構造の環境にいつまでも入り浸ったことが、私の現実逃避と歪んだ自己評価、自己肯定感をどんどん加速させ、いつまでも私をただ優等生な「子ども」にさせていたのだが。)

 

 

 

浪人生活中、手を抜くつもりは毛頭なかった。せっかくここまで来たのだから、絵と心中するつもりで、もう一度本気でやってみよう。新しい気持ちで絵を描こう。もっともっと勉強して上手くなれば、きっと今度こそ、私の意思で、私だけの絵が、描けるようになるはずだ。

 


私は今度こそ、オンリーワンな自分になるんだ。

 

 

 

 


…人は、生まれてからずっと、オンリーワンで無いことなどない。つまり、人はいつだってオンリーワンである。いつだって人は、特別で平凡な、オンリーワンである。

 


私は、私のままでいい。私は、ただ生きているだけで素晴らしい。価値がないことなどない。むしろ、価値など初めからない。生きることに意味などない。そのままでいいのだ。一人一人が、ただ一人の、ただ人間なのだ。

 

 

 

でもまだ、19の私はそのことに気づかずにいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


余談 母の死について、メモ程度の記述

 

 

 

母の死は、そんないつまでも「子ども」から抜け出せずにいた私を、強制的に大人へと導いた。「親の死」という事件は、鮮烈に、まるで私の自意識を根底から覆し、自立を促し、これまでの生活とこれからの生活との間に、はっきりと濃く、不動のピリオドを打った。

 

 

 

 


母の死によって解放された、私の弱い心についての記述

 

 

 

母は、あまりにも健康的で、あまりにも素敵な人すぎた。私の去勢は、ほとんどが母に対抗するためのものだった。

 


母が作り上げていた家庭は、まるで不健康なものが一切なく、明るく、温かく、清潔で、食事もおいしくて、完璧に理想的なまでのものにすら思えた。

 

 

 

 


そこで暮らさなければならなかった、そこに帰らねばならなかった、不健康な私。

 


大きな欠点などない、ともすればこれ以上にないほど充足した家庭環境を前にしてしまえば、私が不健康であるとして、非があるのは、私の方だった。不健康であることは、いけないことだった。私の内面が、おかしいだけだ。そうやって私の葛藤は一人で大きくなるばかりだった。

 

 

 

母を失い、私の家は崩れた。もう元には戻らない。あの頃以上に充足することは今後ない。そのことは、寂しくも、私を安心させた。私は、母が病気になって、母が死んで、私が不健康であることを、初めて許されたような気がした。

 

 

 

母に誇れるような人に、なろうと思わなくて済むようになった。私は頑張ることが減った。等身大でいることが増えた。私の等身大は、母の半分くらいの人間だ。母はエネルギーに満ち溢れた人で、私のエネルギー量は、母の半分以下だった。(姉も、母に似て、私の倍以上は裕に働ける強靭な人間である。)

 

 

 

もちろん、私はそんなエネルギッシュな母のことを、心から尊敬していた。

 

 

 

もちろん、私は母が死ぬことが、とても悲しかった。

 

 

 

 


私は、母が死ぬ時に、なぜ母なのだろうと思った。母は、もしも200歳まで生きろと言われても、持ち前の好奇心と行動力で、一生楽しく生きることができるような、生きることに決して飽きたりしない、魅力的な人だった。

 


だけど、死んだ。勿体無いと思った。早く死にたいとか、生きるのが辛いとか、生きていても楽しいことがないとかいう人よりも、早く死んだ。

 


母なら、絶対に楽しく、明るく、幸せに、いつまでもいつまでもいつまでも、元気いっぱい魅力的に生きたはずなのに。

 


母は多分、他の人の二倍速で生きたんだと思う。生きることを、どんどん楽しんで、幸せをどんどん吸収して、どんどんその幸せを周りに分け与えて、フルパワーで生命を循環させて生きたから、結局、人の二分の一の寿命になったんだと思う。

 

 

 

そんなことを考えながら、私は母を看取った。

 

 

 

 


きっと、私はダラダラと、100歳まで生きる側の人間だ。辛いとか、死にたいとか言いながら、母のような明るくて生命力に満ち溢れた人々に助けてもらいながら、しぶとく不幸に生きる人間だ。最悪なことを考えれば、そういう私みたいな生命力の不足した人間が、母のような生命力に満ち溢れた人間に寄生して、寿命を奪っていると考えられる。

 

 

 

私には、今、大切な人がいる。大好きな人がいる。その大好きな人を殺さないために、大好きな人と二人で、これから先ずっと幸せに生きていられるように、今、やっと自分の心と体に、本格的に向き合っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、働き者を、働かざる者が、早死にさせている。これは、世の常なのかもしれないな、などと思ったり。

 

 

 

 


最後まで読んでくれて、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

海へ

1月30日 海へ

 


今日は始発で逗子海岸へ向かう。

 


昨日の朝、部屋にいることが突然、我慢ならないほどに退屈に感じた。体が窮屈であると訴えて眠れず、どうせなら、と、突然「日の出を見に海にでも行けばよかった」などと、突拍子もない後悔が頭に浮かんだのだった。

 


0時にお腹が空いて、1人でコンビニまで出かけた。家に食材はあったけれど、調理する前にお皿を洗うのが面倒だったから自炊は諦めた。それになんだか、味の濃くて贅沢なコンビニ弁当が食べたい気がした。

 


かれこれ1週間、体調不良で、家で安静にしている時間が多かった。そろそろ生理も、病気の患部の症状も落ち着いてきたというのに、相変わらず体がだるく、心もザワザワと落ち着かないのは、運動不足のせいであると思った。食料調達に運動も兼ねて、家を出た。

 


外の新鮮な空気を吸ったというのに、今日の私にはそれが珍しいことに思えず、退屈で憂鬱な気持ちは続いた。大通りに出て、すっかり人気のなくなった通りを横切ったタクシーを横目に見て、どこか遠くに連れて行って欲しいなどと、平常なら恥ずかしくて憚られるようなドラマティックでロマンチックな展開を、ひとり妄想した。

 


重い足取りのまま遠回りをして、コンビニに入った。鬱々とした気分を振り払うかのように、次々と商品を手に取り、カゴ一杯に買い物をした。

 


よく膨らんだレジ袋を両手にぶら下げて、ぼんやりと家に向かう。ふと、坂の頂上で、チラリと光る何かが目の端を捉えた。月だった。あまりにも大きくて、明るい半月が、西のマンション群の頭上ギリギリに浮かんでいた。

 


私は荷物を下げたまま、月を追いかけた。月は、黄色とオレンジ色を混ぜたような、濃いマスタード色で、高い彩度を放ち、じゅわりと輝いていた。ケチャップをかける前の、ナイフを入れたら半熟卵がとろけだすオムライスか、もしくは出来立て熱々の、ジューシーな餃子のようにも見えた。

 


一度は住宅街に隠れた月を、今度は坂を見下ろした先にもう一度捉え直すと、私はそばにあったバス乗り場の壊れかけた木のベンチに腰掛けて、レジ袋を漁ってスプーンと、ハーゲンダッツの抹茶味のアイスを取り出して、月を眺めながら食べた。わかったことがある。私は今猛烈に、非日常を欲している。今日は、絶対に海に行くべきだ。

 

 

 

深夜2時。今度はワクワクして、気持ちが落ち着かない。私は今日、海に行く。闇夜を切り裂くようにして、真っ直ぐに突き進む、始発の電車に乗って、海に行く。家に着き、旅に出かける準備を始める。興奮の底に、強かな冷静さが流れている。抜け目なくまずカメラと、スマホを充電する。それから、再度絶対に出かけるのだと念を入れるようにして、メイクをバッチリ施した。また、帰ってきた時に清々しい気持ちでいられるよう、ずっと私を億劫にさせていた、流しに溜まったお皿たちを洗った。その流れでゴミを出し、さらに、冷蔵庫で出番を待たせていた食材たちで、帰った時に食べるポトフを作っておいた。お米も炊いた。ヘアアイロンをかけ直して、おそらく朝の海岸は凄まじい寒さであろうから、なるべく暖かい服装を選んで着替えた。身なりを整え終え、最後に荷物を確かめた。旅のおともには、読みかけの小説、食堂かたつむりを持った。

 


部屋を見回す。忘れ物を見つけた。ロフトで寝ている彼だ。何も言わずに出かけようかとも思ったが、出かけてから声を掛けなかったことを後悔するのは嫌だった。彼に海に行ってくると声をかけたら、彼も行くと答えた。その瞬間から、私の今日の旅の目的は最初に思い描いていたものから変わってしまったのだけど、それでも良かった。

 


私は彼のことが大好きだ。彼と一緒に出かけることは、私をまた別の意味でワクワクさせた。一人で行くと思っていた時は、緊張を孕んだ、不安に立ち向かう時のドキドキ感と、決戦前夜の興奮からくるワクワク感。でも彼と行くことが決まってからは、大好きな彼とのプチ旅行が始まる、安心感し浮かれっきった最高潮のワクワク感。今日は絶対に楽しい旅になる。彼に15分時間を与えて、私はその間、再度リュックの中身を確認した。いよいよ旅に出る。

 

 

 

今日の旅の様子は、ブイログで。

 


youtubehttps://youtu.be/FQ4hu-4veow

 

 

 

 

 

 

 


おまけ  憎いほど美しい富士山

 

 

 

 


追記:実はこの次の日、もう一度海に行きました。今度は、一人で。また日記書きます。その前に、メモ程度の日記。家に帰って、ひとねりして起きても、どうしても頭から海が、というか富士山が、離れなかったのです。

 

 

 

 


1月31日

 

 

 

 


でもやっぱり悔しい。快晴の昨日。ただの思いつきで出かけた。海が見たい。それだけだった。正直、海ならば、どんな海でもよかった。だというのに着いてみれば、まさに桃源郷か楽園とでも表現すべき、一点の曇りも濁りもない、眩いばかりの光景が、そこには広がっていた。

 


雲一つない空。地平線いっぱいまで満ち満ちと広がる、宝石のような海。海岸は、まるで目の前に広がる光景のあまりの美しさに立ち止まり、思わず息を止めてしまったかのように、風もなく、波も穏やかだった。

 


海岸沿いから目に映りうる限りの遥向こうまで、遮るものの何一つない、完璧なお天気だった。だから唐突に、始発を逃したことが悔やまれた。この景色の一部始終を見ることに、喉から手が出る思いになった。ああ、きちんと始発に乗れていれば…寄り道せずに向かっていれば…海岸に到着してすぐ、富士山の見えるところまで真っ直ぐに向かっていれば…。お天気があまりにも完璧すぎて、受け取り手の準備不足で、完璧な美を、完全に享受することができなかったことが悔やまれた。様々な要素を兼ね備えた自然界で、全てのコンディションが軒並み高く揃うまたとないチャンスを、目と鼻の先で、みすみす逃してしまったことが悔やまれた。またこのチャンスは訪れるのだろうか。できることなら、リベンジしたい。違う海岸でもいい。憎いほど美しい富士山。