自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

年々、政治への不信感が募るある若者の備忘録

 


はじめに

 


2022年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 


月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 


自分の身体と心をもっと理解したいです。

 


#日記 #月経前症候群 #フリーター 

 

 

 

 

 

2月16日 午前10時40分

 


三月はライオンのようにやってくる。

 


今朝はまた、すごく冷え込んだように思う。マフラーはもういらないと思っていた先週であったが、今朝の冷え込み方は、寒かった先月までの冬を容易く思い出させた。どうやら衣替えにはまだ早いようだ。そういえば昨日の夕方、その日初めて外へ出てみたら、風がものすごく強くて、まさに冬に逆戻りのような寒さであったのだった。室内にいたから、窓から覗く日差しの様子からして、もう少し暖かいものだと思い込んでいた。だから晩御飯に、彼と共通の趣味のコラボイベントが開催されているココスまで行くのは諦めたのだった。

 

 

※以下、何の専門的知識のない一般市民が政治について所感を述べますが、どうかあたたかい目で見てください。


寒さで目が覚めたから、気分はイマイチ。小学生時代を思い出させる変な悪夢まで見た。目の下にはクマができていた。布団で微睡んだまま、いつもの癖で無意識にTwitterを開き、ぼんやりとタイムラインを眺めていたら、政府が新聞広告の欄で「貧困の子供のために支援をしましょう。子ども食堂や学習支援など」と国民に呼びかけている記事の投稿を見つけて、しばらくフリーズした。いやいや、貧困の子供を救うことは、まぎれもなく政府の仕事ではないのか?なぜこんな呼びかけを?(どうやら4年前になる、2019年の新聞記事だったらしいが…当時どんな事情があれ、それにしてもおかしい話だと思われる。)もちろんコメント欄は、私が感じたような違和感を、同じように感じた人々の、憤りをあらわす言葉で荒れていた。残念。また今日も釈然としない、妙に腹が立った嫌な気分で布団から出ることになってしまった。

 


最近は、政治に関する投稿と、それへのリプライでTLが盛り上がりを見せることが多い。その内容のほとんどが、政府が良い仕事をしたというグッドな話ではなく、残念なことに、このままじゃヤバい…人々の生活が、じわりじわりと政府の決定によって、脅かされつつあるようなバッドニュース、そんな危機感からくる投稿、なんとかしないといけないという呼びかけがほとんどだ。高校時代から、様々な分野のプロからアマから学生までのクリエイターをフォローしている私のアカウントのタイムラインであるが、政治の話は年々、目につくようになっていた。つまり年々、そしてここ数年は日々、日々、政治への不信感は、募るばかりだった。

 


Twitterでは大抵、相互フォローでも、有識者でもないのに我が物顔でコメント欄にいるようなやつや、プロフィール欄が胡散臭くて、聞いたこともないような肩書きを持っている独創的なやつは、何を投稿しても面白くないし、それどころか不快で、その上悪目立ちしているし、もちろん政治に関しても見当違いなことを言っている。しかしそれとは反対に、政治に関するツイートが増えたTLで、真っ当な発言ができる、賢明な一般市民が、想像以上にたくさんいることには、この混沌とした社会にわずかに希望が持てる気持ちになる。どのくらいこの声は政府に届くのだろうか。どのくらいこの声は大きくなっていくのだろうか。実際、誰もに届く場所でこの声が発せられたら、どれだけの人が賛同するのだろうか。

 


こうやって一定数、賢明な市民は確実におり、それに賛同するものも決して少なくない数であるというのに、例えばなぜ、選挙結果は変わらないのだろうか。

 

(選挙結果が変わることに、目覚ましく価値があるとも言い切れない現状であるのだが。よりはっきりといえば、変わる先がいない。現状で、選挙結果が変わるとはどういうことであるのか、変わってどうなるのか、想像がつかないから、残念なことに積極的に変われとは言いずらい。もはや白か黒かでは全くもって言い表せない複雑な社会であるというのに、なんだか、こと選挙や政治に関しては、例えば右翼か左翼かというように、二極の白黒志向でしか意思表現の方法がないような、その不自由さと的の得なさが、選挙や政治への無気力感と無関心を誘うように思う。詰まるところ、選挙や政治が持つ「決断する」という行為のそれが、ある程度の切り捨てを含んだり、複雑なものを単純化させなければならないような、一歩間違えれば暴挙になりかねないせめぎ合いの中で、活路を見出していく高い判断力が必要なのだろう。きっとそれは相当に高度なもので、当然、より複雑に発展した社会ではより高度な判断力と決断力が求められる。そういえば、岸田総理大臣(総理大臣と呼びたくもないような、頼りない空っぽのおじさんなのだが)が今年の抱負か何かで「決断力」と述べて、スピーディーな議決とか異次元の少子化対策とか言っては的外れなことばかりしていた最近の様子を見ると、あなたにはそもそも「判断力」がない、決断力という前に、判断力を養って出直してこい(いやもう帰ったらそのまま出てくるなと言いたい。特に息子は家に置いてこい。)少なくとも、決断を不自由などと表現するような私には決断力がないと言える。しかし政治の、言い換えれば決断の、プロであるはずの政治家が、こんなにもモタモタしていてはいけないと思うのは、そこに同情の余地は無いのだろう。)

 


賢明な市民が一定数いるように、社会の困難や弱者に無関心で、暗愚な市民だって一定数いるということなのだろうか。もしかしたら、後者が前者を上回る数であるから、社会が上手に変わっていかないのだろうか。まさか政治家こそが、後者の性質でもってこの国の第一線にいるとは信じたくもない。後者の市民が多いから、後者の政治家が最前線にいる状況は、残念ながら理にかなっている。最低でも今は頼りになる政治家がいないだけだと思いたい。

 


社会は遅々として、真っ直ぐには良くなっていかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


そういえば今日は郵便局に行く用事があったのだった。12時半、少し外へ出かける。

 

 

 

 


今日は晴天。見上げると雲ひとつない清々しい青空が広がっていた。昨日ほどの風は吹いておらず、陽の光がじんわりと暖かくて、また少し先に春を感じる陽気に戻った。

 


木曜日の今日は、オープンしているお店が多かった。カフェ、紅茶屋、本屋、服屋、パン屋、雑貨屋、服屋、古着屋、珈琲屋、定食屋、お菓子屋、雑貨屋…。郵便局へ行ったその足で、近所を一周してこの充実したラインナップ。どれもチェーン店ではない、こだわりのある個人店ばかりだ。お金がない日も(今日も)ウィンドウショッピングで十分楽しめる。

 


私の住んでいる街は、カフェ巡りスポットとして、名が知られているような場所だ。都心にほど近いが、高層ビルや背の高いマンション、無機質な住宅街などはなく、寺町、下町であった江戸時代の風情が今に残っている。古い日本家屋がリノベーションされ、おしゃれなカフェになっていたり、路地へ入れば、昭和の息遣いをありありと感じる、生活感のある背の低い街並みがある。ほとんどの家の玄関先に、年季の入った鉢植え、そこに元気よく茂る植物たち、たまに季節を告げるような庭木すらあり、ベランダには洗濯物が並び、錆びた鉄格子の向こうにささやかな屋上庭園があり、その情緒ある景観が、私はとても気に入っている。いつだって街を歩けば、程よい賑わいと、人々の生活音があり、私は家族と田舎の山奥に住んでいた頃よりも、孤独を感じることがなく、いつも近所を軽く一周するだけで、簡単に息抜きができた。