自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

生理1週間前 画材屋にて 

はじめに

 

2022年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 

月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 

自分の身体と心をもっと理解したいです。

 

#日記 #月経前症候群 #フリーター 

 

 

 

1月20日 生理1週間前、画材屋にて

 


よく寝た。ここ3日、寝てばかりである。昨日はバイトがあったから、まだ眠い目を擦りながらもなんとか起床し、仕事へ向かった。もしもバイトがなかったら、昨日もまた10時間ほど眠っていたのだろう。

 


昨晩は、確か午前3時ごろに寝たかと思う。4時ごろだったかもしれない。一昨日、生理前の不調で、1日を通して寝ているような起きているような…といった微睡んだ状態で、ほとんどの時間を布団で過ごしていたから、その寝溜め効果によってか、昨日は仕事の後も目が冴えていた。とは言え、頭はそんなに冴えておらず、目についたことだけを簡単にやる程度で、どちらかといえば非生産的に過ごしたのだった。

 


今日は14時半に目が覚めて、すぐに洗濯を回すことに決めた。生理前になり、体が冷えやすく、かつ温まりにくくなったため、節約は一旦気にせず、クーラーを常時運転させ、室温を常に暖かい状態に保つことに決めていた。そうして今朝は一晩中暖房をつけたまま過ごした結果、よく眠れはしたものの、室内は完全に乾燥しきっており、喉はカラカラになっていた。この乾燥具合ならば、室内干しでもよく乾くだろうと思いつき、加湿の効果も狙って、ついに部屋干しを解禁し、寝起き真っ先に共同のランドリーへ向かったのだった。

 


生理前のあらゆる現象は、確かに不調ではあるものの、できるだけその不調に逆行せずに過ごすことができれば、失敗や、同居人に迷惑をかける行為(イライラをぶつけたり、泣き喚いたりする)を避けることができる。特に、この三日間のように、眠りたいだけ眠ることができたり、ぼんやりと過ごしたりすることが許されれば、失敗と迷惑行為の回避に加え、体調不良と情緒不安定が絡み合うことで発生した、消化しようのない酷い不安感や焦燥感に苛まれることも格段に減る。生理前のあらゆる症状を、不調ではなく現象として捉えられる範囲内で生活できることが、生理前1週間の理想だと思う。

 


洗濯を回している間は、また布団に戻って微睡んで過ごした。生理前は、普段には考えられないほどに眠っていられる。それから洗濯を干していたら、彼から連絡が来て、週末に使う和紙を今日のうちに買っておいて欲しいと頼まれる。ちょうどスーパーには出かけたいと思っていたから、すでに16時を回っていることを確認すると慌てて外出する準備を整え、出発した。まずは画材屋さんに向かう。

 


色とりどりの鉱石の粒子が、均一な薬瓶に入れられ、番号や色相ごとに整列した日本画の画材屋には、高校生の頃に入ったことがあった。でもそれきりだったと思う。最近は、前を通るたびに店内の様子を横目にしはしたが、用がないので入ることがなかった。

 


店内に足を踏み入れると、砂か埃かの匂いがした。最近ハウスダストアレルギー気味だったから、ちょっと息苦しかった。真っ直ぐにカウンターへ向かい、さっさと要件を済ませることにした。店主が注文の品を用意するために奥へ入っていった隙に、軽く店内を見回したが、高校生の時に、勉強のためとは言え、親のお金で高価な買い物をさせていただくことが後ろめたかった気持ちを真っ先に思い出して、甘くも苦くもないが、強いていうなら無味無臭が劣化したような酸っぱい気持ちになった。

 


今朝SNSで見た、フィンランドの学校では大学までの授業料が無料で、受験料も無料で、必要な用具も学校が用意する、という誰かがつぶやいていた内容を思い出した。日本画の画材を、もしも学校が用意してくれていたのならば、親に申し訳ないなどと余計な心配を一切することもなく、より挑戦的に、次々と作品作りに励むような、制作スタイルをとっていたのかもしれない。(実際は、そのような国でも働く大人が高い税金を払っているのだから、親に感謝することに変わりはないのだが。)ただ、良くも悪くもあの時限られた資金の中で手に入れることができた絵の具は、私が選んだ私だけのコレクションで、金額以上の価値を確かに感じた。床に並べて、その名前や、粒子の様子や色を、何度も何度も眺めては確かめた。購入する際にこそ後ろめたさを感じるものの、実際に手に入れてしまい、あとは描くのみとなれば、私は私が選んだこの宝石たちで、きっと素敵な絵を描くのだ!と、キラキラと胸を膨らませたり、ワクワクと胸を躍らせながら、広く天井の高い居心地の良かった高校のアトリエで、のびのびと絵を描いたのだった。

 


また、大学まで授業料無料の話についての余談になるが、私があれだけ苦労して必死にしがみついてきた美大受験を、終に諦めてしまったのには、さまざまな要因があったにしても、金銭的な援助を家族に求め続けなければいけない後ろめたさは、相当なものだった。受験の結果は、私個人の納得の範囲に収まってくれない。これまで何百万と投資し、またこれからもその必要に迫られる家族こそ、大いに一喜一憂するものだった。そのプレッシャーに私が年々、耐えきれなくなっていっていくことは目に見えていた。また当時、再受験をするか否かという葛藤の中で、一旦資金集めに注力し、自分で稼いだお金で再受験する方法も候補にあったのだが、実際に半年働いた結果、私の能力ではとても困難な道に思えたのだった。

 


子が親に依存することでしか充分と言える学習時間が確保できず、また子が親からの自立と学業を両立するには、相当の能力か時間と忍耐力を要するような国ではなく、またもちろん若者に奨学金という名の借金を背負わせ、卒業後の選択肢を狭め、足枷を作るような国でもなければ、私はあんなにも葛藤せずに済んだのかもしれない。大学の授業料も受験料も無料で、院生には給料すら出してくれるような国であれば、私のあの時の選択は変わったのかもしれない、などとぼんやり思ったのだった。

 


画材屋にての回想に戻る。浪人生になると、お小遣いの金額を超えた画材は、自分のアルバイトで得たお金でも買うようになった。それでもやはり資金に限りがあるので、どうやら今はもう閉店してしまったらしい名古屋の画材屋さんで、小下図や既に所有している絵の具とよく照らし合わせながら、色も、番号も、量も、よく吟味して、ゆっくりと時間をかけて購入した。今日、店内を眺めたところ、あの頃と同じように買い物をすることが、今の私にはもう大変な苦労に思えた。もしもまた同じように買い物をしようと思ったら、当時の感覚に戻るのには、かなりの時間を要するのだろう。絵を描くことだけに知識も技術も特化し、日々絵を描くことだけに没頭し、絵を描くことだけしか知らなかった当時、持てる全ての集中力は自然と、画材屋に滞在するその数時間に、余すことなく注ぎ込まれた。当時と今の私の生活は、全くと言っていいほど違う。もう絵だけじゃなくなった今の私は、あの頃の私とはまるで別人で、だからまたここで買い物する姿を想像するのは難しかった。

 

 

スーパーでの買い物も済まし、家に帰った。今日は、彼の好物のカレーライスを作った。

 

買い物の途中、カフェの外看板のメロンソーダフロートの写真に惹かれた。いっそのことお茶をして帰ろうかとも思ったけれど、彼ももうすぐ帰ってくるし、たいして今日は仕事もしていないのに優雅にお茶など贅沢すぎると自分に言い聞かせ、諦めた。カレーライスを食べてから、彼と夜の散歩に出かけた。いつも入らないコンビニで、偶然、メロンソーダを見つけた。私は閃いて、バニラアイスと一緒に購入し、その晩、自宅でメロンソーダフロートを作った。上出来だった。なんて運命的な出会いだったのだろう。ここ数日、冴えない日が続いた。だけれど今晩ばかりは、いい気分だった。間接照明のみを灯し、音楽を聴きながら、本を読んでその晩は過ごした。

 

 

 

1月22日 生理予定日2日目

 


0時。体の火照りで目が覚める。昨晩は少々寝不足のまま、単純な店番のバイトとはいえ9時間の労働を終え、帰宅するとどっと疲れが出た。晩ごはんを済ませるとあっという間に眠りについた。それから3時間爆睡して、最後は寝苦しさにうなされながら目を覚ますと、室内の暖房はつけっぱなしのうえに、脱ぎ忘れた極暖ヒートテックが猛威を奮っていた。

 


水を飲み、ヒートテックを脱いだら、体が楽になった。寝る前は、あんなに冷え切っていた手足も、同じく隣で爆睡していた汗かきの彼から発せられる熱の影響も受けてか、すっかり暖まっていた。体の芯からポカポカで、服を脱いだあとはしばらく薄着のまま、体の火照りを冷ました。

 


涼んだら、どうやら目が覚めてしまったようで、それからすぐに布団に戻ったものの、なかなか寝付けなかった。昨日バイト先で熱心に読み進めた、糸井重里さんの「ふたつめのボールのような言葉」という、短い格言集のような、詩集のような一冊の本に記された、柔らかくも力強くて面白い、気づきに溢れた、魅力的な言葉の数々が頭をよぎって離れなかった。

 


エッセイストの本や、詩人の本、優秀な経営者などが書いた(または彼について書かれた)本などは、読むと新しい視点を得られて、とても面白いが、読んだ後に少々浮き足立った気持ちになる。彼らの生き様に憧れる気持ちが膨らんで、彼らのように、自分もいつか何かを成し遂げたいと、前のめりな気持ちになる。いてもたってもいられず、いますぐに何かを表現したくてそわそわする。だけど今の私には、まだ自分や自分を取り巻く環境を語れるほどの、大した経験値がないことに落胆したりする。

 


手元にその本がないので、正確に言葉をなぞることはできないが、糸井さんの言った言葉に、誰かのために何かしよう思った時にこそ、最大限のパワーが生まれるとあった。自分へ自分へと、意識が内側にばかり向いているようではいけないよと。

 


糸井さんの他にも、バイト先で読んだエッセイの作者は大抵、20代から30代にかけて、主に出版社などでバリバリ働いて、社会経験を着実に積んだ方々だった。自分の外側に向かって、エネルギーを放出させることを仕事とし、歳を重ねていた。そう思った時にも、エネルギーの大半を自分の内側へと注ぎ込んでいる、現在フリーターの私との違いに、焦る気持ちになる。