自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

HSPとか

 

 

はじめに

 


2022年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 


月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 


自分の身体と心をもっと理解したいです。

 


#日記 #月経前症候群 #フリーター 

 

 

 

1月25日 


ひどい頭痛と、身に覚えのない頭皮の腫れに見舞われて、心配して病院に行ったらただの肩こりだった。

 


ただの、ではないか。診察してくれた、日々ご多忙であろう院長先生の肩よりも遥かに凝った、ひどい肩こりだった。(私の職業を聞いた後に、大変な仕事だろうけどお大事に、と簡潔に締め括った先生へ…あれは皮肉だったのかな?)

 


言われてみれば思い当たる節ばかりだ。この毎度長文で熱のこもった日記の執筆は然り、特にこの1ヶ月間、過去に例をみないほどに読書にハマっていたことは主な原因だった。読書→日記の執筆→気分転換に動画編集→息抜きの絵日記やハンドメイド…といった、これ以上にない完璧な趣味の永久機関が出来上がっており、かつそのどれもが机に向かい長時間集中するような作業で、肩が凝るのは当然だった。

 


おまけに、新しい生活様式を取り入れたことで、月経前の不調にある程度肝が据わり、直近三日間の本当に頭痛がひどくなる前の三日ほどの不調を、「あーはいはい。いつものやつね。無理せず寝て過ごしましょうね」とたかをくくりながらも、隙を見て趣味に没頭するなど、睡眠以外の時間を過集中に過ごし、心から体を労ることなく過ごしたつけがまわった。

 


さらに思い返せば、今月はイレギュラーな仕事が入り、先週までの約1週間は、いつもは全く会うことのない社員さんと毎日顔を合わせ、普段にない緊張感の中で仕事をした。1日の勤務時間も長時間にわたり、催事場の接客が担当だったので、いつになく気合の入ったメイクと服装を纏い、常に人の目に晒されることで気の抜けない時間を過ごした。このことも肩こりの原因になっていたと思う。

 


以下、フリーターから社会へ向けての小言。

 


そういえば今日は、デンマークの作家さんが書いたHSPさんに宛てた指南書を少し読みかじった。ちなみに私は(この日記の読者様なら既にお分かりのように)ここだけの話、HSPの傾向を持った人間である。ここだけの話、というのも、この日本では(いや世界共通なのかもしれないが、)HSPであることを公に自称することに、かなりの抵抗がある。もともと社会では、外交的であることが良いとされがちだから、わざわざ内向的であることをアピールしようとは思わないという理由もあるだろうが、今回は私の独断と偏見に寄った理由も挙げてみる。

 


一つ目に、日本人は、普通とされる性格から外れた人間を、その集団から排除することに躊躇がなさすぎる。ちょっと変わった人を見つけると、ものすごい勢いで、かつ一体となっていじめたり冷遇したりする。わざわざいじめられに行こうとは思わない。二つ目に、同じくこの日本では、HSPを語る際にそれがビジネス書に属することが多く、HSPの特性が、商品的価値のようにして扱われ過ぎているように思う。その様は以降詳しく話題にするが、非常に不愉快である。だから、HSPなんですなんて、うっかりでも他人の前で口にしたくないのである。異常者としていじめられるか、人と違った自分の能力をなんかちょっと自慢していると思われるか…いずれにせよ公言した日には、周囲からバッシングを受ける未来が目に見えている。

 


日本で多く目にするそのHSPを語ったビジネス書は(内向型を語ったものも同じく)汎用性が高く親しみやすいイラストとともに、生存戦略などと題し、内容はワークシートと、分類と傾向の紹介と、さあこれで仕事もっと頑張れるねの励ましに尽き、いってみれば、人と違ってしまっては生きずらい日本人の不安感にうまくつけ込んで、ご丁寧に「それでも集団からはみ出ない方法」を教示する内容にとどまる。あくまでもビジネス書なので、HSPという個性を、「どう仕事に生かすか」のみにフォーカスを当てて、内容がその範疇を超えないことを間違っているとは言いづらいが、この国に住んでいる限り、HSPが目に入るきっかけとして、そんなビジネス書が主流にあるとしたら、(本来ならば先ずあるはずの人々の共通認識としての)HSPへの正しい理解や向き合い方が深まることを阻害して、大きな問題であると思う。 HSPという個性が、仕事にどう生きるかというのは、本来派生的な話なのである。その派生的な部分が表立って一人歩きする状態、つまりこの場合、商品的価値がぶら下がった状態でHSPという名が先に世に出回ってしまえば、HSPは例えば「ある特定の仕事に有利な人」という誤った解釈で人々に浸透してしまい、そのためにその性格は有益か無益かという、常に極端な二択の天秤にかけられるような価値判断でしか語られなくなるおそれがある。本来、HSPは一つの個性であり、人からその価値を測られたりはしない。他人からの扱われ方も、自身が選択できる環境も、100人いれば100通りの、言葉では表現しようのない壮大で柔軟なグラデーションを持っているはずだ。

 


教養もなしに社会に放り込まれ、馴染めない環境に悩んだ者達が、ふと本屋で見かけたビジネス書にあるHSPの特性に自分が当てはまることを知り、居場所を見つけた気持ちになる。餌に勢いよく食らいつくように、まんまと(その懐からできれば逃れようとした敵であるはずの)ビジネスの従順な顧客にさせられる様子を想像したら目も当てられない気持ちになる。「HSPの特性は仕事でこんなに役に立ちますよ」というアドバイスを受けたところで、彼らの悩みの元凶である今の環境から大胆に抜け出さない限り、結局はHSPが抑圧される側にある状況に変わりはないのである。せめてうまく立ち振る舞えるよう、変えられない現状への我慢がちょっとうまくなる方法を教えてくれるだけなのである。(もちろんそのちょっとに救われる人もいると思うから、それはいいことだと思う。)

 


私たち日本人の多くが、自らの意思で、自らにあった環境や生き方を、自由に考え選択する能力に乏しいように思う。変えられない環境で、せめてうまく立ち回れるように我慢することに慣れすぎている。もともと、四季折々の変化に富んだ、自然豊かな島国「日本」に住む日本人の国民性というものが、大きな力の前では屈服するような性格を根強く兼ね備えていたとしても、現代と表記されてから既にこれだけ時代は進んだというのに、この能力不足が補えていないというのは、明らかにそこには何かしらの欠陥があり、おかしいように思う。現代においては特に、既存の枠組みを疑い、必要なら壊し、自分が思うように環境を変化させる能力が、若者を中心に、もっと育っていてもいいはずだった。そしてそれは、まさに日本という国が、近代以降の人文科学や哲学といった教育を軽んじたことが原因にあるように思う。先の話に戻れば、「HSPとはある特定の仕事に有利な人」という誤認が簡単に生まれてしまうのは、それは深掘りして自分の言葉で考え直さない人がこの国には多くいるのかもしれないし、もしかしたら思ったよりも深刻に、考え方が資本主義一色に侵されつつあるのかもしれない、と考えられる。また自分がHSPであることを知り得たのに、結局は変わらない現状に声をあげることなく耐え抜いてしまう人がきっと多いのは、まさに先に言った教育の不足の結果、つまり自分の頭で物事を考え抜くような、哲学的な思考方法の知識や経験に乏しいのだろう。それか、考えは持っていたとしても、この日本の社会自体が、それを堂々と発表できるような環境を持っているとは言えず、考えることがむしろ自分を傷つけることになりかねず、自分を守るために、無意識的に考えないようにしているのか。

 


そんな私たちは、特に追い込まれた状況であればあるほど、目の前に与えられた餌に従順になるしかない。自分で頭で考えて物事を判断することができず、環境に屈してしまうことに慣れるとはそういうことだ。重ねてにはなるが、その近代以降の人文科学や哲学の教養を、小耳に挟んだ話だと意図的に排除している説もあるくらいで、(もし本当だとしたら軽蔑する。)そうだとしたら、私たちはデザインするより、デザインされやすいように、教育を施されたのだろうと言える。一人一人が創造者になりうる能力は与えられず、扱いやすい単一の労働力であるように。ただこの教育方針は、残念ながらこの国を衰退すらさせうる大きな欠陥となった。(以下ビジネス書で齧った知識の披露。)変化が激しく複雑で曖昧な、不確実な時代(VUCA)となった現代では、従来のシステムの単純な改善作業(バックミラー思考)や維持だけでは発展は難しく、存続すら危うい状況となった。いかに一人一人が創造者たる独自の思考力と行動力が身についているか(バックキャスト思考)が重要になった。この現代の最新の状況というものが、ここまで言語化されて分かっているというのに、しかしながら相変わらず現在進行形でこの国では、ひと世代前の、古い慣習を持つ集団が第一線にあり、未だ退く気配はない。というのも先に書いた教育の不足によって、交代選手であるはずの次世代を担う若者たちがイマイチ育ちきっていないのだ。若者達は、この社会がこれ以上の発展を遂げることは困難であろうことを、つまり、この複雑で曖昧な問題が絡み合った社会の現状を、打破できるほどの能力が自分たちにないということを、無意識的にも冷酷に理解しているように私は思う。新技術の開発や思想の革命などは、一握りの天才たちに任せきりで、多くの凡人にとっては社会の動向など完全に他人事である。この急速に成長し、ともすると行き着くところまで行ったがために停滞が始まった社会で、新しい何かを生み出すということはもちろん、その生み出されたものの善悪の判断すらも、潜在能力がない上にことさら教育を受けていない者にとっては不可能に等しく、完全にお手上げの状態であるということだ。私たちにできることは、とりあえず最低限の現状維持で、これ以上悪い方向に向かないように、せめて自分だけでもこれ以上不幸にならないように願うような、非積極的で、個人的な生き方である。そんな生き方しかできない自分に対して、社会に対して、きっと少なくない数の者が、それぞれの具合で生きづらさを感じているというのに、自分たちには、この社会を変化させうる能力がないということを冷酷に理解しているがために、声を上げることができずにいる。このように変化を苦手とする国民を抱えて、この国は切れ味の悪くなった資本主義をいつまでも身に纏ったまま、今はもうどこに向かえばいいのかわからないというのに、息も切れ切れ、ともすると惰性のようにして走り続ける。

 


話を戻すと、私は(ここだけの話、)HSPの傾向があるので、その先週までのイレギュラーな仕事というのが、自分の思っている以上にストレスだったりする。ある程度外面を取り繕い、その場は器用にこなし乗り越えることができても、生理前になり、不調が通常よりも激化している様子を見て、事後的にそのストレス量を知ったりする。生理痛が尋常じゃない時や(以前、引っ越し前の準備と、気にいらない家庭環境、慣れない仕事が重なり、最もストレスを感じていた月の生理痛で、救急車を呼んでしまったことがある)今回のように普段にない症状が出る時は、その月、自分のキャパシティーを超えた活動をしていたと言える。

 


と、深夜0時に起きだして、陽が登るまで書き続けた。午前8時、就寝。

 


12時、荷物が届き一旦起きてトイレに行くと、月経を確認。やっときた。生理前の諸症状だけはもうずいぶん前から出ていたから、早くきてしまえと、ここ数日は特に今か今かと待っていたのだ。たっぷり1週間、眠気とだるさに悩まされた。普段は12時間は活発に過ごせるのに対して、この1週間の毎日の平均活動時間は8時間ほどで、残りの約16時間は睡眠か、布団で横になって過ごした。

 


二度寝して17時、起床。日記は続く。次回も小言。男女平等とかに対して。