自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

生い立ち① 中学時代

はじめに

 

2022年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 

月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 

自分の身体と心をもっと理解したいです。

 

 

 

 

#日記  #月経前症候群 #フリーター #20代

 

 

生い立ち①

 

中学時代

 


私が今の私になったのはもれなく初潮を迎えてからだ。中学一年の秋、思春期の始まりである。

 


まるで棒切れと表現できるほどに、痩せっぽっちで小柄だった小学生時代。そもそも食の細かったこれまでとは一変して、中学一年の秋、劇的に食事の量が増えた。

 

あっという間に太り始め、肩や尻、胸は少し、手足、頬が丸みをおび、いわゆる女性らしい体つきとなった。体型が劇的に変化し、とにかく体が重くて、自分の体なのに動かしづらくて毎日不快だった。活発に活動することが億劫で、すぐ疲れる様になったり、むくみや便秘など、不調が増えた。

 


子供の頃とは違い、客観的に自分の容姿を捉えるようになった。もちろん、体がムチムチ太り始めたことはかなり気にした。(祖父母と共に暮らしていたが、食事のたびにしきりに祖父が、丸くなっただの女性的になっただのと、デリカシーのかけらもなく、まじまじとこちらを眺めては、ともすれば私の肩などをがっしりと掴みスキンシップをとりながら指摘してくることが心底不快だった。)(姉は思春期が私よりも早く、早々にこの家に嫌けが差し、足早に出て行った。)テレビや雑誌で見るような美人とは圧倒的に違う自分の容姿に、落胆するようになった。もともと自分のことをクラスで1番可愛いなどと思っていた、おしゃれやかわいいものが大好きな、ませた子供時代であったが故に、大事なアイデンティテーが一つ、大きく失われた。かなり自分というものに、自信をなくした。

 


容姿に自信を無くしたことで、人前で話したり、自分の意見を言うことが苦手になり始めた。猫背になった。なるべく人と目を合わせなくなった。家族にそれを指摘されるのが特に嫌だった。運動部であったが、試合中に頻繁に髪を触ることを、他人の親から指摘されたことを父から聞いて、ただでさえ気にしていた容姿に加え、さらに『容姿を気にする不細工な自分』という自分の性格にさえ嫌悪した。その後、高校時代は少しでも可愛くいようと努力することすら虚しくなり諦めた。

 


中学2年の頃から、変わらないクラスメイト(四方を山で囲まれた小さな集落に生まれた同じ13人のクラスメイトと、中学卒業まで共に過ごした)、変わらない自分の「優等生」の立ち位置に嫌気がさす様になった。4月生まれで、呑み込みが早いという長所があったため、長年先生から出来る子だと優遇され続け、授業中、幾度となくクラスメイトの前でお手本として立たされた。子供の頃の私は、素直にその優遇に満足しており、うまくいくたびに贔屓される、その単純明快でオイシイ構造は、私をより一層真面目で、向上心の高い女の子に仕上げていった。

 


そうして、大人の期待に応えるように、いつまでもストイックに優等生であり続けた結果、ついにクラスメイトが投げやりになった。多くの決め事で誰も意見しなくなり、先生が困ってしまうのを見かねた私が意見をだしてしまえば反論はなく、完全に私の独断で決め事が進む様になった。授業中、私の発言のみで授業が進むことが多々ある様になった。私は勉強が好きだったが、仲の良い友達が皆そうではなく、徐々に壁を作られるようになった。友達の素行が悪くなっていくことが、私は不快で、理解できなくて、溝は深まるばかりだった。私は、ほとんど女友達を失った状態になった。気晴らしだった恋愛も中学2年の秋に失恋し、友達も失い、クラスで浮き、先生に贔屓されながら独裁を行う孤高の存在として、また、そのことで私がだんだん鬱々としていくほど、より一層腫れ物のように扱われていき、いよいよクラスでの居心地が悪くなった。

 


また学校の授業速度の遅さ、授業内容の効率の悪さを感じ、真面目に授業を受けることが嫌になった。家での自己学習が生きがいで、報復性夜更かしが激しくなる。しばしば朝方まで勉強や趣味のために起きている様になる。授業は聞く価値がない気がした。しかし寝不足が全ての不調を加速させた。

 


同じく中学2年の頃、iPod touchがクラスの間で流行した。仲の良かった男女グループは、私以外みんな持っていた。私もどうしてもほしくなり、その冬に強行的に親に買ってもらった。もちろん依存症になり、反抗期が加速した。iPod touchを片手に持って離さず、笑顔少なく鬱々とし、家族との会話を拒み、自分の殻に籠る私と、活発で健康的な母とで、激しく衝突する。寝不足が増え、体と心のコントロールが上手くできず、心身の不調が激化した。

 


SNS(特にTwitter)を頻繁に覗くようになり、ネットで見かける人々と照らし合わせながら、将来の自分を想像するようになった。今思うと、世界が狭くて馬鹿みたいで嫌になる話だが、学校の成績表から与えられた自分の有能性についての情報、狭い友人関係から得られた自分の性格についての情報、周りの大人の暮らしぶり、テレビから得られた情報、そして、twitterから得られた、なんかわかんないけどみんなこんなふうに生きているんだなっていう妙に現実味が1番ある情報、当時の自分なりにこれらをまとめて考えた結果、この後私が進むべき1番平凡で幸せな道は、まずなるべくいい大学に進み、なるべくいい会社に入り、自立することだと分かった。大事なのはここからである。そして「仕事ダリィ行きたくねぇ」とTwitterに書き込みながらも週5で仕事にいく。お給料でオタ活したり、休日に遊びに出かけるのを生き甲斐とする。日曜日の夜にはサザエさん症候群になり、月曜日が来なければいいのにと何度も願いながらも、争うことはできずまた仕事にいく。これを何十年も繰り返す。というなんともつまらない未来が、やけに鮮明に思い浮かぶようになった。社畜という言葉があることをTwitterから学んだ。こんな未来はどう考えても退屈すぎるのだが、でもこれこそが、私の求める普通の幸せらしいのだ。というのもこれが今社会に生きている大多数の大人たちの実情で、平凡に幸せであるとはこういうことなのだ。漠然と、私も普通に幸せに生きられればいいと思っていたのだが、こんなのが普通の幸せなのかと思うと、何だかゾッとして、大人になりたくないと真剣に思い悩む様になる。

 

 

 

山奥の小さな田舎で過ごす、長閑すぎる日々に訳もわからず苦しくなった。曽祖母、祖父母、両親、姉妹の8人家族で、何の問題もなく、全て健康的だった。毎晩皆で揃って温かな食卓を囲み、たまに贅沢な外食をし、たまに旅行に行き、欲しいものを買ってもらい、毎日十分に暮らす、絵に描いたような幸せな暮らしが、死んでしまいたくなるほど苦しく感じる時があった。幸せを喜ぶべきであるのに、苦しみ、反抗的な気持ちになる、環境と不釣り合いな自分の心の不穏さに混乱た。その不穏で漠然とした大きな闇に呑み込まれて、押しつぶされそうになり、本当に死んでしまいたいと強く思うことさえあった。

 


友達との不和や、学校生活の非充実感が、当時の私の人生観を作った。テストや素行で人々には優劣がつく。何度もふるいにかけられながら、将来的にその優劣をさらに細分化した相応の身分に人々は配置される。妬みや蔑みはなくなることがなく、諦めの中で人は生きる。当時の自分の感覚で言えば、「勝ち組と負け組」が生まれる、そんな社会や学校のあり方には、もちろん懐疑的になった。

 


自分が優等生で居続けることの途方のなさを感じた。自分は現時点で優等生であるから、このまま成績を維持し続け、相応の大学に進学し、そこそこの会社に就職する、いわゆるレールに乗ってさえいれば、当時の感覚で言えば、勝ち組になれる気はした。だけど、その道のりは、あまりにも長く、あまりにも退屈すぎる様に感じた。そもそもその道のりを、退屈なもので、我慢の連続だと感じている時点で、近い将来自分に限界が来る気がした。複雑で理解できない怖しいものには目を瞑って、ただ淡々と現状維持ができるほど、自分が器用ではないことに、こんなにも言語化はできていなかったけど、どこかで気づいていたから、私は結局、その後逃げるようにレールを外れることとなった。

 


社会は、素直で明るくて、向上心に溢れたエネルギッシュな人間だけで構成されていないことを知った。ポジティブな言葉だけでは社会を語れないこと、誰もが笑顔で幸せであることがいかに難しいことであるか、社会に横たわる様々な問題に対して、解決の糸口はそう簡単には掴めないこと、それは、順風満帆でお手本のような子供時代を過ごした素直さと向上心の塊であった私には残酷な知らせだった。

 


私が優等生であればあるほど、相対的に劣等生となってしまう人が生まれるもどかしさを知った。私が良いと信じて疑わない物事が、たとえどれだけ美しくて正しくて、大人から称されるような素晴らしいことでも、友達には暴力として働く場合があることに悩んだ。正義が誰かを殺しうる、そんな社会の複雑さに戸惑った。

 


もしも私がこのまま優等生であり続けたとしても、勝ち組になったとしても、周りには大勢、相対的に劣等生になってしまう人々がいて、当時の感覚で言うならば、負け組になる人々がいて、その人々から妬むべき対象として、勝ち組は否応なしに敵対されることが、恐ろしかった。また私は、そういった(当時の感覚で言うならば)負け組とされる人々が生きるのが辛そうにして、徒党を組んで陰湿に過ごすのを見るのが心底不快だった。彼らとは相容れないまま、妬み妬まれながら生きつづけなければならないことが、辛かった。実際、私が教室で感じていた不快感はこれだった。私は、優等生として、彼らの敵となり、私は相対的な尺度で強制的に彼らを劣等生に落としてしまう、悪になりうることに悩んだ。

 


競争社会が生む亀裂、分断は、学校という小さな社会ですら充分に感じられた。相対的な価値は不安定であるにもかかわらず、相対的な価値によって、ふるいにかけさせられ続ける社会に、自分の時間をこれ以上捧げるべきではないと判断した。平凡でも、自分や周りに「絶対的な」価値を見出せる大人になりたい。私はその思い一心に、ナンバーワンではなく、オンリーワンを目指して、美術科の高校に進学した。