自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

昼夜逆転生活の始まり 1日を24時間としない暮らし

 


はじめに

 

今年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 

月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 

自分の身体と心をもっと理解したいです。

 

 

 

 

#日記  #月経前症候群 #フリーター #20代

 

 

 

12月19日(月)

 


休日二日目。昨日は徹夜勤務明けの過剰睡眠を経て、新エリアの散歩から絵日記制作、深夜クッキング(新レシピに挑戦。上出来だった。)に終わる新しい発見に満ちたなかなかに充実した1日であった。寝過ぎてしまったとややネガティブに目覚め、特に何の期待もなく(日の光を浴びるためだけに)1日の初めに行った散歩から、あれほどまでの充実感を得られるとは全く想像していなかった。若干、1番最後の「眠れない症候群」の発症と、酒を飲んで眠るという荒療治があったことは心に蟠りを残すが、それでも心躍る偶然との出会いや新しい発見に感化され、意欲が湧き起こる素晴らしい1日だった。

 


そういった充実した日の次の日というものに、最近プレッシャーを感じてしまう。たいてい、同じように過ごそう!などと鼻息荒く目覚め、今日も素晴らしい発見を!などと前のめりに活動すると、空回りに終わる。昨日のあれは期待していなかったからこそ得られた充実感であって、どうにも期待してしまうと、目が濁るのか、邪な心に感性が閉ざされるのか、心躍る発見との遭遇は叶わず、また何に打ち込んでも、期待通りの効果を得られることはほとんどない。だからといって特に目新しさのない、じっと部屋に篭るような1日は、前日の興奮を味わったばかりの身には、どうにも退屈さを感じ我慢ならない。このように興奮や感動を求めるばかりに、生き急いでしまう日こそ、小さな幸せに満足し、足るを知る、そんな哲学を思い出す必要がある。

 


起床時刻は昨日と同じだ。14時半。睡眠時間は7時間ほど。自分にとってはやや短いが常人には十分な時間なので起きることにする。今日の予定を考えたが、昨日あれだけうまくいってしまうと、今日という日に自信が持てない。どうしても引っ張られそうになるが、期待を込めて同じように過ごしてはいけないと自分に言い聞かせ、気を取り直して予定を立てる。体調は、昨日寝る前に軽度の生理前鬱を発症したことを考えるとあまり良くはないだろう。慎重に、体を冷やさないことに気をつけて過ごすのが吉と思う。どうしたものかと考えた結果、今日はまず半身浴から始めることにした。

 


16時半。このままだと日が暮れて、長い長い夜が始まってしまうと慌てて散歩に出かける。以前用意した従姉妹へのプレゼントが、発送の段階で約1週間滞ってしまっていたので、今日のミッションは発送を一つでも進めることとする。昨日とはルートを変えて、昨日と反対側の丘へ行き、沈みゆく夕日を眺めることにする。ヤマト運輸へまず寄ったが、大変混雑しており、後に回すことにした。谷中銀座を抜けて、まず夕焼け段々坂で夕日を眺めた。それから富士見坂でもう一度、暮れゆく空を眺めた。最後の日の光を見届けてから、なるべく通ったことがない道を辿りながら千駄木駅へ戻り、ヤマト運輸で荷物を出し、帰路についた。

 


PayPayの割引キャンペーンを意識して数日たち、お金のことや節約のことを考えるのにくたびれかけていた。キャンペーンを使いこなしていたつもりが、やや振り回されている感覚を覚えるようになっていた。千駄木駅周辺も盛んに30%還元のお店が並び、目移りばかりして歩く。日も暮れ、仕事終わりの忙しない人々の往来、車の往来、都会の喧騒に揉まれながら小さくなって歩いた。やはり今日の散歩は特に収穫なしなのだろうかと、とぼとぼと家に向かった。

 


一度は通り過ぎたが、30%割引に背中を押され、割引対象店舗の街中華の美味しそうな大きな餃子をテイクアウトで購入した。すると突然、今日の晩御飯は中華系にして、がっつりモリモリ食べようとインスピレーションが湧いた。思えば最近は、野菜中心のポトフやシンプルな煮物といった、優しい味付けで刺激の少ない消極的な料理ばかりを作っていた。昨晩セブンで買った、ニンニク香る砂肝が冷蔵庫にあるので、キャベツともやしを鶏がらスープの顆粒出汁でカラッと炒めて、砂肝とあえて、今晩は餃子付き砂肝定食にしようと名案を立てた。

 


気を取り直して歩く。本屋までもが割引対象で、欲に塗れた心で入店し、立ち読みするも、ピンとくるものは見つからず諦めて外へ出る。同じく割引店舗のタピオカ屋のくせに最近野菜の販売に力を注いでいる謎店でキャベツを購入しようかと考えたが、新鮮さへの信頼が感じられなかったので、割引はないがお世話になっているいつものスーパーでキャベツともやしを購入し家に帰った。

 


素早くお米を炊き、インスピレーション通りの晩ごはんを用意した。思ったとおり、すごく美味しい。予定通り、モリモリと食べる。炊き立てご飯はおかわりして二杯も食べた。軽くお酒も飲み、不安や退屈から完全に逃れ、これぞストレス発散といった充実した時間となった。

 

 

 

12月25日(日)

 


メリークリスマス。2022年12月25日朝の5時ちょっと前。19日から飛んで、今日は6日ぶりに日記を書く。

 


いきなり追記にはなるが、明日26日が生理1日目となる。生理1週間前だった先週末から今週中にかけて、やはり体調不良が目立った。体の冷えから始まり、倦怠感、睡眠の変化(目覚めの悪さ、寝つきの悪さ、日中の眠気、過剰睡眠)集中力の低下、情緒不安定等々…。だからといってもちろん仕事は休めず、社会はいつもの通り回っているから、私はその流れからこぼれ落ちないように、最低限生活と仕事をこなすことに注力し、合間に休み休み暮らした。

 


とはいえ、実はいい日もあった。それは20日に、深夜に起き出して活動していたその流れで、日が昇るのを待って、午前中に小石川植物園まで散歩に出かけたことだ。日々の中で特に充実し楽しかったことは、この日記ではなくYouTubeVlogとしてあげているからよかったらみてください。まあその日の夜に一悶着あり、大泣きし、彼に謝罪する毎月恒例の生理前の大爆発が起こるのだが。

 

 

 

昨晩は同じ勤務地だった勇佑と揃って帰宅。一昨日の晩、不運なことにコロナ陽性者と鍋パーティーを楽しんでしまった勇佑は、何やら早速喉がイガイガ、頭痛がするらしい。慌てていつものスーパーでお互い食料や(私はおでんを作るための練り物と大根、もやしと小松菜、お父さんが送ってくれたたくさんのりんごを乗せて食べるためのヨーグルト)飲料(私はパックのフルーツジュースと野菜ジュースたくさん)をたんまり買い込んで、帰宅。

 


帰宅すると、なんとサプライズで勇佑からクリスマスプレンゼントをいただいた。(バイト先のお皿屋さんのアイテム色々。私が可愛いと大絶賛してた勇佑みたいなペンギンの置物をいただいた♪)

 


即席の晩ごはんを作って食べたら、(勇佑はさっき買ってたお惣菜と弁当食べてた。私はぶなしめじ入りの鶏そぼろ丼、作り置きのほうれん草トッピング)ロフトで横になり限定配信の呪術廻戦0を見て、22時、寝落ち。

 


0時過ぎに目が覚めてトイレに行く。生理前でここ数日便秘気味。帰宅して真っ先に晩御飯を食べて寝たから、脱ぎっぱなし、買い物置きっぱなしの汚部屋を片付けて、床が見えるようにひとまず整える。ウイルスを死滅させるために緑茶を飲もうと思っていたのだった。フィルターインボトルを使って実家から持ってきた緑茶を飲む。美味しい。ほっと一息つく。溜まってきていたお皿洗いに着手する。淡々と済ませたら、また緑茶でホッと一息ついた。床にコロコロをかけて、フレグランス除菌消臭スプレーを一帯にかける。

 


今日のように、疲れていたらさっさと寝てしまって、ひと寝りして心も体もスッキリしてから家事などやればいい。

 


そもそもイライラしながら家事をしたところで、得られる達成感もその効能も、表面上ものにとどまり、全く家事のポテンシャルを発揮できずに暮らしが過ぎ去ってしまう。もったいない。家事は気持ちよく行い、そして気持ち良くなった住居でさらに気持ちよく暮らす、あの安らかでささやかな「暮らし」を、平凡に送ることこそが、家事のもつポテンシャルが発揮された状態だ。(ちょっとうまく書けなかったが)などと書いてみる。

 


バイト先で読みかけていた小川糸さんの日記集の続きを読むことにする。久々に間接照明を駆使して、リラックスできる雰囲気作りを心がけてみる。今日は床で柔軟しながら読もう。最近は、たくさん散歩で歩いて運動はしているけど、柔軟はあまりしていなかった。好きなことを思いっきりして、睡魔が来るまで起き続けて、疲れこんで眠る作戦に変更してからは、以前の寝る前のルーティーンとか(お風呂に入って間接照明灯して、美容やストレッチして、リラックス音楽かけて、体が冷めないうちに布団に入るとか)すっかり忘れ去って、自然とストレッチも怠っていた。

 


ストレッチをして、リラックスした体で本を読んだ。4時前になると、おでんに使う茹で卵を仕込んで、鶏そぼろ丼の残りと冷やご飯を温め直して食べた。それから、日記を書くことにした。

 

 

 

先々週から昼夜逆転が続くが、それはルーティーンに囚われない暮らし、そもそも社会性に囚われない暮らし、社会が与えた時間割に縛られず、自分の食べたい時に食べ、寝たい時に寝る、という勇佑直伝の一見怠惰だが、打算的であるが故に心に生まれる、絶えない焦りと忙しなさからの解放を可能にする、私にとっては革新的で、全くの未知な生活様式を実践している。

 


先週はこれでいいのだろうかと半信半疑でいたし、特にまだ意図的にそれを行なっていた部分があったから、むしろ打算的に行動してしまっていて逆効果な部分もあったが、ここ数日はコツをを掴み始めているのを感じる。

 


直近三日間はバイトだったが、無理に夜早く寝つこうとせず、自然と眠くなる朝方までご飯を食べたり掃除をしたり、好きなことをしたりして日常を過ごした。注意すべき点は、その際に決して仕事をしすぎないことだ。夜間、少しでも作業を進めよう、成果を最大限まで得ようなどと生き急いでしまっては、それが昼だろうが夜だろうが、会社員だろうがフリーターだろうがもはや関係なく、つまりどこにいようが自分で自分を縛ってしまっているようでは、(せっかく社会に縛られない、昼夜逆転生活が許される環境に置かれているのだから尚更、)元も子もない。

 


徹夜じゃなければ、バイトも何とかなる。むしろ、言ってしまえば所詮バイトであるのだから、存分に肩の力が抜けた状態で臨んだ方が、割りに合っていてちょうど良い。しかしながら正直朝方寝たあと、バイトのために起床するのが自力では難しく、勇佑に無理やり起こしてもらっていることは課題なのだが、眠い目を擦って何とか出勤し、何とか過ごして、帰宅する。その日の夜ご飯はテイクアウトかコンビニ弁当を買ってきて済ますのがベターだけど、余裕があれば簡単に自炊する。YouTubeでも見ながら食事をすまし、すぐ布団に入る。そうすれば朝寝足りなかった分があるので、床に入ってからあれこれと悩む間も無く、自然と眠ることができる。

 


この、自然と眠れるという成果が、この生活の偉大さだ。だというのに、先日失敗してしまったことがあった。冒頭に少し触れた一悶着の話である。それは昼夜逆転に後ろめたさがあったことと、昼夜逆転の食事事情にまだ順応していなかったことから、深夜3時にまだ早いのに無理に眠ろうとして、また空腹に気づかぬまま、1時間も2時間も眠れず布団で過ごした挙句、精神不調を起こし、勇佑にダル絡みし、部屋に来いとしつこく電話して、キレられてしまったことだ。大泣きして呆れられてしまった。次の日の朝には深く深く反省して、彼に謝罪をして、また元通りの1日を過ごしたが、あの事件は、昼夜逆転生活の夜の過ごし方を大幅に見直すきっかけとなった。

 


昼夜逆転生活。正確に言えば、お日様の登り降りに関係なく、また社会人としての常識的な生活リズムにとらわれず、ただ自分の体内時計だけで暮らす暮らし。お腹が空いたら食べて、眠くなったら眠る暮らし。革新的なのは、1日が24時間じゃなくてもよくなることだ。もし1日という概念の使用を続行するならば、長く深く眠りにつき、脳がリフレッシュされ、心身の調子がリセットされるタイミングを、1日の区切りとする。

 


すると、これまで私が、昨日と今日を比較して、一喜一憂、一進一退していたあの行為が存在し得なくなる。比較しようがないのだ。毎日が24時間で区切られるが故に派生していた、タイムリミットが失われた。このタイムリミットがあったからこそ、私はなんとかして本日分の成果をあげようと躍起になった。そもそもこのタイムリミットこそが、その日の成果を、量として、見える形にしていた。

 


以前は、確かに心のどこかで、消えることなく常に時間に追われている感覚があった。特に休日になるたびに、限られた自由な時間の中で、どれだけ自分らしく過ごすかということに邁進して過ごしていたため、24時間365日の中で、心から休まる時というものが、もしかしたら一時たりとも存在しなかったのではと思う。タイムリミットが失われた今、時間に追われる感覚は消え去り、圧倒的に心が休まるようになった。

 


今日を良い日にしようという気持ちは今までとは変わらない。しかし、主体的な時間感覚を身につけた今の私は、言うなれば今日という日を長くも短くも設定できるようになった。良い日にしたいならば、今日という日が良い日になるまで、満足のゆくまで思いのまま過ごせば良い。調子が悪ければ、早々に寝てしまって、調子の悪い今日なんて、さっさと終わらせてしまえば良い。また、追記にはなるが、この主体的時間感覚を持って生活して数日が経過したが、そもそも調子の悪い日というものがなくなった。今まで調子が悪いと思っていた日は、他の日と比べた時に、相対的に成果の少ない日のことを指していたのだった。

 


これでやっと、月経前症候群に悩む私が目指すところとしていた、その日の自分の体調に合わせた暮らしというものを、穏やかに送ることが可能になった。というのも、その日が他の日との間で相対的に評価されることがなくなった。その日の調子も成果も、絶対的なもので、どんなふうに過ごそうが、毎日がそれぞれにそれぞれの価値を持つようになった。またわざわざその価値に、優劣などつけようとは思わない。(以前は24時間経つと、自然と価値がついてしまっていたのだった。)ただ淡々と、その日を各々楽しみ、暮らすようになった。

 


この生活で気をつけることがあるとすれば、食事に時間割がないから、空腹に早めに気づいて、意識的に食事の時間を設けることだ。私は空腹感を感じる前に空腹を通り越していて、脳のエネルギー不足に陥っていることがあり、何をするにもやる気が起きない、食事すら取ることが億劫な手遅れの状態になることがあるから注意だ。(この生活は体の健康が課題になってきそうだ)

 


以下、食事についての追記。

 


眠くなったら、眠る。お腹が空いたら、食べる。なんて簡単だと思っていたが、それが私にとってどれだけ難しいことかをこの3週間で思い知った。思い返せば、幼い頃から(そして直近の2年間は特に濃密に)家族との共同生活で、家族と時間を合わせて過ごしてきた。特に食事の時間が決まっていた。このことが人間の社会性の付与にどれだけ働きかけているかを今知ることになった。

 


家族揃ったあの食卓に、食事の時間に、顔を出さないということは不健全であり、またそれが家族というコミュニティへの小さな反発を意味することを、幼いながらもどこかで感じ取りながら育った。食事を取らないと、食事の時間に顔を出さないと、もちろん健康について心配されるのと同時に、どうやら素行について、目を光らせられた。

 


私の家は一般的以上に食事に重きが置かれていたのもあり、古風な祖母の指導のもと、母親が家事を休む日などなく、曽祖母、祖父母、父母、子(三姉妹)の8人が揃った食卓が毎晩恒例の景色で、途切れることはなく、おそらく家族が朝昼晩の三食の食事を怠ったことは一度たりともなかった。素晴らしいことに、子供たちはどんなに時間がなくても、食欲がないと訴えても、朝ごはんを抜きに学校に行かせてもらったことがなかったくらいだ。

 


なんとしてでも、三食くえと、たくさん食えと、そしてみんなと一緒に食えという環境で育ち、もちろん最中は、食事の取り方や、食事中の会話、食卓の雰囲気のようなものに気を配った。私はその食事コミュニケーションとでも表現するような、ひとつのコミュニティ形成に有効なある種の手法に、完全に染まったままこっちへきて、初めは不規則かつ個人的な勇佑の食事事情を、問答無用で矯正しようとした。一緒に食事が取れないと小言を言って、勇佑と食事を取るために帰宅時間を待ち構えた。出来立て熱々の1番美味しい時に食べさせたいからと、時間通りに帰ってこないと不満をぶつけたりした。食事中は味はどうか、おかわりはいるかなどと必要以上に気を配り、今日はどんな日だったかなどと会話を迫った。もちろんこれらの行為は価値観のすれ違いとして私たちを険悪にさせていったので、今では一緒に食事を取るのは予定が合った時のみとし、メニューもはじめは凝ったものも作っていたが、最近はお店のテイクアウトやコンビニやスーパーのお惣菜で済ますことも増えた。

 


家族との共同生活を終えた今、私はもう規則的かつ一般的な生活リズムに束縛されなくても良いことを、彼から教わることとなった。

 


食事の時間の他にも、起床や就寝の時刻についてもだ。家庭環境にも恵まれ、学校生活も真面目にこなした私は、無自覚のうちに、まるで模範生とでも呼ぶべき立派な大人になっていた。今や学校や会社といった縛るものがなくとも、培った生活リズムに対する確固たる一般常識によって、自発的に社会性に準じた規則正しい暮らしを送っていた。彼に指摘されなければその自身の真面目さに気づかなかっただろう。こんなにも無意識的に、かつ着実に、自身の中に立派な社会性が育まれていたことに驚いた。

 


ありがたいことに一人前に備わっていた社会性は、しかしながらフリーターとして生活することとなった今の私にとっては、あってもなくても良いものになってしまったのだが。

 


詰まるところ、私が現在送っている、社会にとらわれない暮らし、1日を24時間とせず、好きな時に好きなものを食べ、好きな時間に寝る暮らしというものは、当の本人が持っていることに無自覚であるくらいにまで浸透した、普遍的かつ強固な社会常識には反するもので、私はまずその無自覚に身につけた社会常識というものを、自覚するところから始まり、そして実際に送っている生活との心理的な不一致を、少しずつすり合わせながら、全く新しい生活様式を身につけている最中、というのが現状なのだろう。

 


(この後素人の知識でざっくりとした話をしてしまうので恥ずかしいのだが)元々人間社会というものは、狩猟採集も農耕も、近代から今に至るまでの労働だって、協調してやってくものだったから(ざっくり)人々が共有する時間感覚や規則が、揺るぎなく人間社会の中心にあり続けた。その上、以前は現代のように物質的に恵まれた豊かな社会ではないので、その時間感覚や規則にきちんと順応する社会性が、各々に身についていることが生命維持のために強く必要だったに違いない。お日様の昇り下りと一緒に生活することが、本能的にあっているのは、人間を生物として考えると自然のことだろう。

 


私が今実践している、1日を24時間としない暮らし、昼も夜も関係なく暮らすことも可能で、共同体に属さずとも、もはや日付や暦の概念すらなくとも、生命維持が可能な暮らしというのは、現代社会の豊かさがもたらした最新の暮らし方である。ただし、未だ組織に属した労働者が多数を占める現代社会では、この最新の生活を実践する者は少数派だ。今のところはマイノリティな暮らし方でもある。

 


私はこの最新の生活が、広く一般に受け入れられる日は近いと思っている。働く能力があるにもかかわらず、(社会情勢を冷静に考えると特に組織に属して長期にわたって)働くということに、価値(将来性)を見出せないがために、仕事に重きを置かない人生を選択をする若者は、現在増加傾向にあると言えるのではないだろうか。例えばSNSを利用して、資格や学歴がなくとも、広告収入でお金が稼げたり、今までなら引きこもりと呼ばれていたような廃人生活者が、それも人と違ったある種の秀でた才能として(ゲーム実況者等々…)脚光を浴びることもありうる時代になった。各々に合った生活リズムで暮らしながら、各々にあった方法で生計を立てられるなのなら、例えば頭ごなしに、昼夜逆転が悪であるとはもう言えなくなったはずだ。もちろん、私たちの親世代のように、朝起きて、夕方退勤する、週に5日きちんと働く人生を選択をする若者がいても良い。(むしろ社会にはそのような大人が一定数必要である。感謝である。)

 


終身雇用の時代は終わり、かつデジタル革命によって職種も働き方も多様になりつつある現代、おそらく知らず知らずのうちに、現在進行形で、この最新の暮らし方に属する者は増加傾向にある。私のように、ひと世代前の価値基準の中で、立派に育った優等生ほど、この最新の生活を受け入れるのには少々苦労するだろうが、どうか柔軟な心で、この生活を受け入れていってほしい。いずれ、そういう人もいるよねって違和感なく、言ってもらえる暮らし方だ。

 


どうか排他されずに、このままこの最新の暮らしを、穏やかに実践し続けられますように。私は今、この暮らし方が結構気に入っているのだ。