自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

【暇と退屈の倫理学】読書記録も兼ねて 今日の調子

 

はじめに

 

今年7月に上京し、人生初の一人暮らしを謳歌している23歳です。

 

月経前症候群を少しでも克服するために、その日の調子を振り返った日記をつけています。

 

自分の身体と心をもっと理解したいです。

 

#日記 #フリーター #20代 #読書記録

 

 

12月1日 生理4日目

 


朝、憂鬱。何度も目覚ましを止める。バイト行きたくない。ギリギリまで寝る。10時すこし前、ようやく起きる。髪がまとまりやすい日で良かった。着替えて、メイクをそれなりにして、出かける。10時30分。おにぎりくらい作りたかった。遅刻だ。お湯とインスタントの抹茶オレは呑気にもつ。昨晩荷物を詰めといて正解だった。iPadスマホと充電器と膝掛けとレッグウォーマーと文房具と手帳と・・・手間だけど暇つぶしはしっかり持っていく。今日は地下鉄。

 


マックでエッグチーズハンバーガーとナゲットを買う。ドリンクつけたらいくらになっただろう。セットの価格確認。10時50分。混んでて並んだ。遅刻に遅刻を重ねる。

 


11時10分。出勤。すこし仕事をして、後は好きな事・・・と思ったが今日は身が入らない。絵日記が滞納中で、まだ10月末の高山のページ。早く進めたいのに、億劫。抹茶オレは持ってきて正解。ありがたく飲む。インナーが薄すぎた。明日はあのニットをインナーに使おう。楽なバイトだからって喜びの日と、それでもなんとなく億劫の日。今日は後者。絵が下手でつらい。趣味でしかない。(趣味だから楽しいだけでいいのに、それ以上を考えすぎ。楽しくないのにやる事じゃないのにやろうとしちゃだめ。)今日はイラストが楽しめない日。諦めて動画編集をすこし。お腹がすいた気がする。パンを買って齧る。

 


17時。読書は結構集中できた。暇と退屈の倫理学。結論のページ。思ったことを手帳に書く。何か大事なことが掴めそうで掴めない感じ。理解したようで、後一歩足りない感じ。

 


バイトが億劫なのは、その時間、拘束されて、好きなようには振る舞えないから。もし家にいれば、小腹が空いたら料理をしたり、気分転換に散歩をしたり、疲れていれば昼寝もできる。今日はそれができないから億劫。・・・これは流石に仕事を否定するには怠惰すぎる理由だ。今日は調子が悪い。諦めて店内のポップを作ってみる。

 


暇と退屈の倫理学を応用して考えてみる。バイト中はやりたいことができなくて、退屈している状態。何度も時計を見て、解放される時間を待つ。私はバイトに自分の時間が奪われることに焦りを感じている。時にバイトは、やりたいことに「とらわれて」いればいるほど、退屈になる。

 


とらわれの状態は、人間らしい生にあらず。人間はおおむね退屈の第二形式「気晴らしと退屈が絡み合った状態」を生きている。暇と退屈の倫理学より。ハイデッガーによると、一から三、どの形式も、ふとした時に体の奥底から湧き上がって決して消える事のない「なんとなく退屈である」という声に対して耳を塞ぐことを目指した行為だが、第二形式の退屈は、第一形式=第三形式のように退屈から逃避しようとするがために自己喪失することがなく、退屈と自己の内面とに、安定と均衡が生まれるとされる。何より、考えることの契機となる何かを受け取れる余裕があるのが第二形式の特徴だ。この気晴らしと退屈の絡みあった状態を生きる生、なんとなくつらい人間的生こそが、人間が正気である状態とされる。

 


しかし人は時に、なんとなく退屈な状態、なんとなくつらい人間的生を生きることに耐えきれなくなり、退屈の第三形式=第一形式に逃げ込むことがある。どちらも、退屈から逃れるためにひたすら仕事やミッションや決断を遂行する、奴隷状態に陥る。第一形式は何かによって退屈させられる状態であり、前提として奴隷状態にあるがゆえに明確に退屈する対象・原因が生まれる。第三形式は「退屈である」という、退屈以外に何もない広域に、ただただ放り出される状態で、ハイデッガーはそれが人間が自由であることの証だと言い、そして決断せよと主張したが、決断した後どうなるかということには言及しておらず、考えてみるとそれは自ら奴隷状態に陥りにいくことを指し、第一形式と同じだと言える。

 


人はなぜ奴隷状態に陥ってしまうことがあるのか。奴隷状態は、退屈であるという声から逃れられるから、快適であるのだ。人間は従うものがあったほうが楽なのだ。しかしその状態では「考える事の契機となる何かを受け取れる余裕」がない。自分の心や体、あるいは周囲の状況に対して故意に無関心になる。それは狂気的であると言える。

 


バイト中、やりたいことができない退屈さに空虚になる。「ぐずつく時間による引きとめと、期待の対象がいうことを聞いてくれないという空虚放置」を感じる。この空虚放置は退屈の第一形式の特徴である。バイト中は実際、退屈すぎて苦しむほどの場所ではない。店頭に並んだ本はどれも読んだことがなから読めばきっと面白い。仕事もいくらでもある。なのに、退屈を感じる。自分の自由な時間が奪われる焦りを感じる。もし私が今、したいことをしたいという気持ちにとらわれ、それ以外のことに無関心になっているから、この退屈さ、空虚さを感じているのだとしたら、何かしらの奴隷状態になっている可能性がある。さては今日、絵日記に対して筆が進まなかったのは、絵日記を完成させるという楽しみが、奴隷状態を目論んだ退屈凌ぎのミッションとなりかけていることに、心のどこかで気づき、違和感を感じ取っていたからか?

 


なんとなく退屈である、その空虚を覆そうとしてはいけない。退屈から逃れられようとはしてはいけない。バイトを無闇やたらに億劫に感じるとき、私はやりたいことにとらわれすぎている可能性がある。あろうことか「半ば故意に周囲から隔絶し、己の決断の奴隷になりかけている」可能性がある。これでは周囲から受け取れるものも受け取れない。書き留めておく。バイトとの付き合い方を考えたい。18時。

 


19時。退勤。意地で徒歩で帰る。この前そうしたら調子が良かったからそうする。しかし今日は思ったようにいかない。調子が良かった日を真似てみても、同じことをしてみても、しっくりこない日がある。今日はその日。歩いてみたけど、足を一生懸命ただ前へ動かしている感覚。気温がぐんと低くなったからかな。歩くきっかけになった本を読んでからすこし経ったからモチベーションの効果が切れたのかな。もしそうだったら飽きるの早過ぎるから違うと思いたい。熱心に読んだはずなのに、おかしい。多分体調が悪いだけかも。

 


なんだかこのまま帰ってもどんどん憂鬱の深淵に落ち込んでいきそうな予感がして不忍池のベンチで休憩する。今日1番癒された時間。都会にぽっかり空いた、穴。夜景をうつす、穴。鳥が泳ぐ。風が気持ちいい。自然と空気を深く吸う。かなり冷えていたけど目を瞑ってリラックス。明日はマフラーを巻いて出かけよう。コートは・・・いいものが思い浮かばなかったけどできるだけ厚着していこう。しばらくいたけれど風邪をひきそうな冷え込みだったから渋々帰る。思った通り、帰った途端疲れが出て赤ちゃん返りグダグダうじうじモード。調子の悪さで判断力がかなり低下していたため、お腹が空いていたのに途中赤札堂などに寄り(テイクアウトで牛丼か、コンビニ飯を買えば良かった)大した買い物もできず、ただ店内をうろつき体力を余分に消耗した。勇佑に大根と豚ひき肉の煮物を作らせて、食べさせてもらった。足マッサージしてもらったら、限界が来て布団に入る。足がかなり冷えていた。ホットカーペットをつければ、そのうち足も温まって眠れる。買っておいて良かった。暑すぎ注意、汗注意。意識があるうちにちゃんと切ってから寝た。すぐに寝付けた。