自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

「自分らしさ」への答え?


2024年 11月29日

 


 言葉の世界の住人になりたい!と憧れて、沸き起こる好奇心に身を任せて、休日毎に図書館に入り浸るような生活が1ヶ月続いた。

 すると、私の中から、「取り留めのないおしゃべり」というようなものが、だんだん息を潜めるようになった。


 というのは、今月バイトのシフトが少なめに落ち着いており、精神的に穏やかな日が続いていたから、鬱憤を晴らすような言葉の放出がなかったとも言えるし、図書館で、あらゆる分野の巧みな言葉たちを吸収するのに全身を投じて、それに手一杯であったからというのもある。ただ私の直感的に一番は、「巧い言葉」に圧倒されて、自分の拙い言葉の紡ぎに価値を見出せなくなったから、というのが、ある。

 

 言葉の世界の住人になるにあたって、「学び直し」が自然と始まった。それは、私がこれまで言葉にできないがゆえにモヤモヤと悩み苦しんでいた、感覚的な感情と思考の絡まりを、解きほぐしてくれるような言葉たちとの出会いであった。具体的には、YA(ヤングアダルト)コーナーの本たちとの出会い。


 中高生にもわかる言葉で、中高生…「青年期」の人間が多かれ少なかれ、誰もが抱くような「抽象的」な問いに、学問のプロたち…研究者、専門家が、答えるような本たち。


 私は、研究者・専門家である彼ら、彼女らの言葉に夢中になった。自分の、長年の悩みに次々と決着がつくような感覚に、驚き、興奮した。知的好奇心が満たされる快感、悩みが晴れる開放感に、ほとんど中毒のような状態になり、朝起きてから晩の寝る直前まで、私の脳神経を全力で奮い立たせてくれるような、知的な刺激を欲して、とにかく本を読み、言葉を追いかけた。

 

 私は自分のブログのタイトルを「自分らしく生きたい」として、この2年間「普通に生活する」ただの日々にめっちゃ揉まれながら、その中で生じる葛藤や気づきを言葉(文章)にして、自分らしさとは何かを緩やかに探っていたわけだけど、ついに、ダイレクトに解答を提示してくれるような本に出会ってしまった。

 「ちくまプリマー新書」は「学び直し」にあたって特に熱心に読み漁ったジャンルであったが、その中から榎本博明さんの「<自分らしさ>って何だろう?…自分と向き合う心理学」との出会いは特に鮮烈だった。正直、この本の背表紙と目が合った時、手に取るのが恐ろしいまであった。私はついに、これまでの私と、決別するのかもしれないと思った。つまり、大人になってしまうかもしれない!とワクワクした。


 丁寧に、丁寧に、これ私のことや!と思いながら読み進めている。この社会で自分らしく生きるにはどうしたらいいのか…という、私の悩みは、決して特殊な、変な悩みじゃなかったんだ、という安心感が一番にあった。誰もが多かれ少なかれ抱く悩みに、人一倍、深刻に、悲観的に、向き合っていたのが私だったのだと気づいた。


 そんな、アイデンティティをめぐる問いに苛まれたりする「青年期」は30歳くらいまで続くのではと、心理学の世界では前から言われているらしい。(ちょうどさっきその項を読んだところ)

 一応、大人になる通過儀礼としての成人式は20歳にあるけれど形骸化していて、20歳で一人前の大人だなんて、到底言い難い世の中であることはわかってる。でも、まさか30歳くらいまで、モラトリアムしてても、おかしくないなんて…。次の春に26歳になる自分は、ちょっと励まされた気分。


 一応、私の今の生活、東京生活は来年いっぱい、26歳までと決まっている。27歳になった時には新天地での暮らしが始まっている予定だ。6年近く付き合っている、現在半同棲中の彼と新天地にて同棲を開始し、新しい仕事を探し、そのうち結婚もする予定である。

 


 出産能力についてのタイムリミットが人生に与える影響はやっぱり大きいよなと思う。

 ちょうど一年前に、社会にフェミニズムという運動があった(ある)ことをはっきりと知って、ちょっと勉強してた。バイト先のベンチャー企業(って勝手にずっと呼んでるけど本当にベンチャー企業なのかはよくわからない。主観的見解。)の社員さんに女性が多いことも影響していた。

 それから1年経って、フェミニズムの考え方には欠点(失敗)があることを理解した。女性の出産能力の過小評価。(など…正確に書けないからカッコ書きにするけど、「男性に寄っていく方法で女性の立場や権利を主張する」(男の言語で話す、男の服装をする、男並みに仕事する等々…それってどうなん?という話。) 今、改めてジェンダー論を緩やかに学び中ではある。

   私は、彼との間に子どもが欲しいと、性急には全く思っていないけど、もしも私の不勉強や怠惰(惰性)のせいで、出産や子育ての機会が失われるのだとしたら、それは本望ではない。

 正直、子どもを幸せに育て上げる自信…子育てに対する夢や希望は全くといっていいほどない。むしろ子どもをつくったことが、自分たちを困窮に陥らせる原因になったらどうしようとばかり悲観的に思う。

 でも、それらはやってみて、何とか乗り越えていけばいいものなのかもしれないとも思う。行動しない限り、成長はない。どんどん成長していく自分が未来にいると思えば、何とかやれるのかもしれない。

 


 昨日、今日と、図書館に行くのを自主的に控えた。中毒状態だったので、本当は行きたくてしょうがなかったが(昨晩は今日図書館に行けなかったことが悔しくて、行かなかったことが不安で、涙が出た。)研究者・専門家の文章の「権威的」な感じに、どこか疲弊している自分に気がついたからだ。自分の中から沸き起こる、自然な考えや言葉が「学問」の権威やルールに縛られて、奪われていっている気がした。

 昨日は、図書館で読書に励む代わりに、自宅での絵画制作に没頭した。いい絵が描けたのもあって、リフレッシュすることができたようで、今日はこうやって文章を書くことができた。


 私は、誰もが子どもから大人になる過程で、多かれ少なかれ抱く悩みをちょっと拗らせてはいた。いた、というのは、この1年でかなり落ち着いてきた。酷い月経前症候群PMS)を自覚し、ピルの服用を始め、環境の変化からの安定、気の許せる相手と穏やかな共同生活が送れていて、仕事も趣味も一応安定しているおかげで、精神的にかなり穏やかだ。やっと、まともになってきたところ。

 トドメに、この読書熱。もしかしたら私はもうすぐ、crazy完全な大人、になってしまうのかもしれないヨ〜。楽しみ。