自分らしく生きたい

自分の体験が誰かの生活のヒントになったらいいなと思います

「先輩」に会いたい/疲れ果てた日の実態

 


2024年 11月4日


 昨晩、高校時代にハマっていたソシャゲを彼氏にそそのかされてものすごく久々に開いたら、夢中になってプレイした高校時代が思い出されるわ、こんな単調で受動的すぎるゲームにあんなに熱中して…と呆れるやら、なんだか恥ずかしくなった。(※キャラやストーリーが魅力的ではあったんだよ。)

 

 ゲームで暇つぶしや息抜きをするのでなく、本を読んだり、何かのイベントや講演会に足を運んで、尊敬できる大人をこの世の中から探し出して、この社会に縁、自分のこれからの居場所をどんどん作って、高校時代の余暇をもしも過ごせていたならば、鬱屈とした思春期、内に篭りすぎて答えの出ない悩みに苛まれた青春時代というものを、あんなに長いこと引きずらずに、もっと軽やかに終わらせることができただろうにと、25歳になった自分はお節介に思って、本当に自分のためになるものとは何かとは、高校生風情にはわからないものだよなと、なんだかすごく悔しくなった。


 電子書籍を読み流しながらも、そういう面白い大人、尊敬できる大人にどうやったら出会えるのだろうか(25歳にもなるがコロナ禍の影響かつ個人的な諸事情で社会経験に乏しく、人と出会った場数というのが極端に少ないのであった。)というようなことをつらつらと考えていた。目の前には自前のPCがあって、ここで「上手に」検索さえかけられれば、いくらでも巡り会えるはずなのに、私は何をノロノロとしているのだろうと思った。

 (…そう思うと、この前浜松の友達に、素敵なお店やそこで働く大人たちを紹介していただけたのは本当にありがたかった。あのあとウェブ検索をかけて色々と関連情報を仕入れることができたし、知りたいと思っていた写真の世界について少し触れられたのも嬉しかった。この少し触れられるという入り口の経験は大きくて、この経験を起点にいくらでも宇宙は膨らんでいくから。)

 それで、そうやっていつもよりぼんやりと思考を遠くにやって物思いに耽っていたら、ふと、「ウェブマガジン」とか調べてみたらどうかと思いついて、まとめサイトから気になったものをいくつか拾い上げてみた。


 milieuという塩谷舞さんが個人で運営している(いた)ウェブマガジン。塩谷さんが書いた文章、自身で取材を行ったインタビュー記事とか、エッセイとか、写真とか、色々載ってて、それらは全部自分で編集してみんなが見れる形にしてる…一連を個人でやってる、そういうサイト。

 サイトの色合いとか、写真の雰囲気とか、余白の感じとか、話題の選択も、全体が好みで、もちろん文章も良くて、これいいなーと思ってじっくり読ませていただいた。

 それに!私のちょうど10歳年上ということで!「出た!10歳年上の人!」と興奮して、興味津々に読ませていただいた。

 

 私が東京に来て楽しく生活できているのは、大好きな彼氏が一緒にいてくれるおかげと、あとバイト先で出会える「10歳年上のベンチャー企業で働くキャリアウーマンたち」の存在が大きい。(※ほんとにベンチャー企業なのか、キャリアウーマンって表現は合っているのか、諸々定義をよくわかっていないのであくまで主観的な見解で、敬愛を込めて勝手にそう呼ばせていただいてます!と注釈つけておきます。)

 年上じゃなくても、同い年のスッゲー仕事ができる理知的な雰囲気の社員さんのことも大好きで、(←たまにしか会えない上に数回しか話したことないくせに私が一方的に慕っている。憧れ。)あと同じアルバイトの先輩と後輩も信頼できるし尊敬できるしでね、もうね、みなさん、仕事もできる上に優しくて繊細でセンスが良くて、この人たちと関わってたい!と思うからいられる。


 10歳年上の人に出会える機会なんて、私の地元(めっちゃ山奥)では滅多にない。もう少し歳を取ったら増えるのかな?出会えたとしてもほんと一握り…多様性なし。

 それもあって新鮮で、その上、この(10歳年上の方々と私との)10年間にある、ラグ…ジェネレーションギャップって、結構あるのよ。激しいってわけではないけど、生々しくて、おもろい。

 今回塩谷さんのサイトも見て思ったことは、インターネットへの眼差し、捉えかた、使い方、意気込みって、もしかしたらちょっと違うのかもしれないってこと。

 例えば、10歳年上の方々の方が、使いこなすぞ!というポジティブで能動的な印象を受ける。私たちは、もっと受動的で、インターネット(主にSNS)の使い方が、ダサいやつにはなりなくないなーという消極的な意気込みな気がする。


 そういうジェネレーションギャップを見つけることは、この社会というものを、一層クリアに見渡せる重要なきっかけになるんだと、今回塩谷舞さんの存在を知って、さらに強く思ったわけだ。「先輩」との関わりは、「社会サバイバル能力」の向上に直接的に響く、大きな経験値の獲得を感じる、とか思ったわけだ。


 つらつらと思ったことを拙い言葉でここまで書き殴ってしまった。(もしもバイト先の社員さんに読まれたらどうしよう、恥ずかしすぎる、てかクビになったらどうしようってブログ投稿する度に思うよ。)


 あと、働くということへの、意気込みについて。10歳年上の人はさらにその10歳年上の人のことを見据えている。そこにプラス実際に、私よりまず10年間サバイブした経験がある…!まじ、要するに先輩は先輩なのよ。偉大なのよ、ということ。

 とにかく、先輩から学び取れることの多さよ!そしてあわよくば、そういう尊敬できる先輩に囲まれた職場、業界に身を置いて、どんどん自分が成長していけたらいいのにな…というようなことをね、今回、熱く、語りたいのでした。

 でもこれって向こう(先輩)からすると、鬱陶しい眼差しなのかもしれないと思うのでこっそりここに書くだけにするよ。誰も彼も、すでに成功しているわけではなく、まだ悩んでる最中の方も多いだろうしね。

 自分も10年後そういう目で20代の子に見られてると思ったら恐ろしいしね…

 

 

 

 

 

 

遡って

 

 


2024年 11月3日 晴れ 

 

 

 昨日と打って変わって、晴れ。雲ひとつない晴れ。

 

 11月3日文化の日。晴れの特異日というらしい。

 

 毎年文化の日は全国的に晴れるみたい。なぜか。確かに去年も晴れていた気がする。去年のこの日は立川へ、東京蚤の市へ遊びに行った気がする。

 彼氏も連れて行った。お天気も良くて、売ってるものはみんな素敵だったけど、会場は混雑の極みで、人人人人人人、見渡す限り人、見渡せないくらいぎゅうぎゅうに人、人で出来た大河、その大河に否応なしに流されたし私も大河の一部だった屈辱。…大変だった思い出である。

 早朝の気温は15度くらいで、春秋用のパジャマを収納ケースから出してはいたものの、タンス臭くて着られないと床に放置して、しばらく長袖インナーのみで過ごしていたけどそろそろ限界か。肌寒くて、起きた。背中が出ちゃってたみたい。嫌な目覚め。

 


 私はまた昨晩暴動を起こしかけた。

 

 昨日はちょっとした縁があって、日雇いバイトでイベントの手伝いに朝から出かけていた。曇天、雨の降ったり止んだりする薄暗くて肌寒い中、たっぷり半日、屋外のテントで過ごした。

 16時から本格的に雨が降り始めてお開きへ。最後の駅から自宅までの道のりで土砂降りに遭って、ずぶ濡れになって帰宅した。幸いだったのは、長靴を履いていたこと。今日は本当に、長靴を履いて行って正解だった。濡れた足元で一日を過ごした場合の体力消耗を想像すると恐ろしい。

 労働の割に比較的穏やかに、帰宅後速やかに湯船に浸かり、残り物を食べ、休養の姿勢に入ることができた。靴擦れ防止に靴下を二重履きしたのも大変良かった。冷え防止に繋がって一石二鳥だった。

 


 私はあまりにも外でニコニコとしすぎる。人に気を遣うことが、適当にできる人と、過剰すぎる人とでは、大違いである。

 しかも私は、気を遣うと言っても、気が利くわけではあまりない。だから褒められたもんじゃない。

 私の気遣いは、自己防衛のためにある。気を遣っているというより、気を張っていると言ったほうが正しい。


 私は周囲の人に対して、私が良い人であるということを誇張するために気を遣う。そうしないといられない。

 よく働き、(それが、良い働きをしているという意味にはならないのが悲しい。精一杯働いてる、誠心誠意やっている、そういう積極性を見せて空気を悪くしないように努めている。)場が盛り上がるような言葉や行動を選んで進んで声をかけたりもする。そうしたくてやってる。(…特にこの日は、初めて会うような人との、日雇いのバイトだったし…)…そうしないと居心地が悪くて人と一緒に1日も過ごせないから。

 そうやって過剰に気を張って昨日は過ごして、仕事は楽しかったし、やりがいも感じたし、高揚して、やり切ったー!という気持ちで帰ってきたけど、1人になって、少し時間が経って、どっと疲れが出ると反動でおかしくなる。

 疲れすぎて、暴力が振るいたいような気持ちになる。具体的に説明すると、体にある力を制御できなくなる。適切な声量で話すこと、適切な速度で動くこと、適切な握力で握ること、適切な表情でいること、そういう普段の一挙一動に苦労するようになる。そんなこと無意識にできていたことが、気に障って、できなくなる。

 ポジティブに言えば、カラオケに行って、めちゃくちゃ大声で歌って、リズムに合わせて体をぶんぶん動かして、大爆笑して、飲酒して、ぎゃーっと叫んで、うわー!っと泣いて、そう、大暴れしたい!!という気持ちになる。

 素直にそうすれば気持ちは晴れるものなのだろうか。

 でもそんなことして社会的にも自分のプライド的にも許されたはバブル期までだったよな、と妄想する。

 


 そういう疲れが、一晩寝て取れれば良いのだけど、取れない。

 今朝、肌寒さで起きて、無理やり起こされた状態だから目覚めは悪いはずなのに、目はガン開きで、薄笑いが止まらなくて、まず表情筋のコントロールに失敗。隣で寝ている彼氏を虐待のような力で抱きしめたりお尻を迷惑に叩いたりして、力のコントロールに失敗。言葉も冷静に話せない。

 仕方がないから、布団から出て、その謎のエネルギーの発散先として皿洗いと部屋の掃除と洗濯と朝食作りと、といった一連の家事を同時並行かつ爆速でこなして、目ガン開きの薄笑いのまま、朝食の小松菜とベーコンと卵のあっさり焼きうどんを食べたら紅茶を入れて、新しく買った詩集を読んだ。詩は、ちゃんと刺さった。やっぱり芸術は頭のおかしい社会不適合者への魂の救済のために、存在しているのだ。なくてはならないのだ。と感動した。


 仮眠をとって出勤した。洗濯、めっちゃたくさんあって大変だったけどイヤホンで爆音流して聞いてやってやった。普段、神経過敏だからイヤホンの音量はかなり小さめに聴いてるけど、その反動でちょっとした自傷行為という感覚もあり、めっちゃ、最高の気分だった。


 出勤中、前をノロノロ歩いて道を塞ぐカップルのことを蹴り飛ばしてやろうかと思った。そのカップルのせいで青信号をひとつ見送ることになった時は、男と女のどちらに暴行を加える方がよりその後の自分の身が安全だろうかとクリアに想像して諦めてやった。死んだ顔で電車に乗った。マックで割り込んできた表情のおかしいチー牛っていうんだろうな、メガネの若い世間知らずそうな男のこと、その場で怒鳴り散らかして叱ってやろうかと思った。子どもがぐずって親に泣き縋りながら喚き歩く声が耳に触って、持っていたペンを投げ捨てて折ってやろうかと思った。


 こうやって淡々と、自分の見たものや感じたものを、そのまま、見たままに感じたままに書き殴っている間に、時間も経ったからだろう、気持ちは落ち着いてきた。暴走して、何もかも癇に障っていたような感覚が、文字に起こすことで、なんだか取るに足らないような、些細なことに思えてきた。どうでもいい過去のことになった、ということだろう。

 

 

 私は過剰に、良い人であろうと思いすぎているのだろう。イライラしたくない。人の前ではなるべく、人が不快になるような表情や態度でいたくない。優しくて、穏やかで、建設的で、できるだけ人を癒すような存在でありたい。

 でも自分の能力がそれを達成できるほどよく出来ていない。

 

 学生の頃は特に、プライドが高いと、評価されることがよくあった。私はずっと、理想が高い。夢見がちな女なのだ。美しいとか、正しいとか、人のためになるとか、そういうポジティブな価値の、より重要に評価されやすいものが好きだ。

 それが私の俗っぽさでもある。例えば高学歴というものが、純粋にすごく魅力的だと思う。あと、芸術が好きだ。