2024年10月26日
ここ数日の自分は、朝起きてまず、何か美味しいものが食べたいなぁと、妄想ばかりしていることに気づいた。
どこかで外食しちゃおうかなと、思いつく近所のお店にこの後出かける妄想を始めて、どのメニューを頼むかまで鮮明に思い浮かべて、食事を終えてお会計をする時に冷や汗をかくところまで想像して、諦める。
それから、あの時食べたあれ美味しかったなぁ〜と、また食べたいなぁ〜と、味を思い出してうっとりする。
(原因は多分、帰省の締めに超絶スペシャル激うまスパイシーカレーを食べたから。スパイスに病みつきになってるってワケ。)
お金があったらなぁ。
いやいや、自分が贅沢すぎて嫌になる。
YouTubeで毎日3食卵かけご飯を食べるのを何年も続けている人とか、食事は完全食の液体がメインで6年たった人とか(病人ではない)、目に入ると、そういう選択肢だってあるんだし、もうちょっと私もストイックにならないかんのかなーとか、変に感化されたりして、なんか違う気もするけど、とりあえずこの前BASE FOODの完全食の菓子パン4種16個入りセット(3900円くらいだったかな)を取り寄せてみた。で、2つばかり食べたわけだけど、これが…美味しいとは…いえない味でね。無味ならまだしも、なんか絶妙にまずい味がして。うん、まずいんや。ただ結構お金かけちゃったから頑張って食べ切ろうとは思うけどさー。
いい失敗経験になったよ。
昨日も図書館で、閉館前の2時間弱を過ごした。
最初はおすすめの小説まとめとか、児童文学ベストセラーまとめとか、総記コーナーをザッと読んでいたけど、最終的に文化人類学系の、子供の貧困にまつわるような本を2冊ほど熱心に読んでしまっていたので、それもあって、いちいち美味しいものが食べたいとか、外食がしたいとか言ってる自分が嫌になる。贅沢病だこんなの。
ただ、東京の狭いアパートに住んでいると、どうしても息抜きにお金を使いたくなるもので、美味しいもの(といっても選択肢はチェーン店ばかりなのだけどね)食べたり、新しい本買ったりしないと、やってられないというか、家にこもってたら寂しいんだよね、刺激が足りなくて、窮屈で、パーっと解放されたい気持ちになる。(と、バイトが立て込んでいると特に思う。ストレスが溜まっているとこうなる。追記しているバイトが落ち着いた11月になってからは、発散欲は凪いでいる。)
あー、また夏の個展前とか、去年の冬みたいにストイックに、朝起きたらまずコーヒー牛乳で空腹を凌ぎながら絵を描きはじめて、2時間くらい粘ったら生卵と納豆を溶いたレンチンうどんを啜って、ちょっと休んだらまた3時間ほど絵を描いて、夕方スーパーで安くなってるお惣菜を買ったり、最低限の野菜や肉を買って自炊したりして、満腹になったら休みがてらDSして、寝る前にもう少し絵を描くか本を読む、みたいな清貧勤勉な生活がしたい。したい…というか、そういう生活してる方が精神的に罪悪感がなくて充実を感じるんだよなー。
と、不味いBASE FOODを齧りながらお気に入りのバジルティー(この前浜松でお友達に頂いたのだ。超お気に入り。)を飲んで、こうやって文章を書いているうちにある程度贅沢したい気持ちはおさまってきた。
というか、こうやって創作活動をしたならば、ご褒美として外食くらいしたっていいじゃないか!たった1,000円前後の外食を贅沢!と後ろ指差すこともないだろう!という気持ちが芽生えてきて、いや、そもそも、ものすごく空腹になれば、卵かけご飯もレンチンうどんもご馳走なんだよなぁ…(追記:というわけで、結局この後レンチンうどんを啜ったのでした。)「美味しいものを食べたい!」の、美味しいもの、のハードルが今ぐんぐん下がってきているところ。だいぶ真剣な空腹になってきたというわけ。
しかし、最近私は又吉さんにハマっているので、よく芸人さんの話す貧乏な下積み時代と比較すると、私なんて大した苦労もせず夢をゆるゆるとみて、死ぬほど努力もせず楽に過ごしすぎなのかなと恥ずかしく思ったりもして、もっと極貧生活をして、臥薪嘗胆!という気合で生きねばカッコ悪いのかな、というか人に舐められるんじゃないか、とか思ったりして、それで、一応こうやって空腹を今度はインスタントコーヒーと牛乳で凌ぎながら夢中で文章を書いたりしているのだけど、この文章にどんな意味があるかはわからなくて、お金には到底ならなさそうだし、この文章の積み重ねで大成する気もしないし、結局朝起きた妄想のままパーっと外食しちゃって、お金使っちゃったことに焦って一生懸命働いて、またパーっと外食するような、一般的な、なんというか資本主義経済?に従順な生活のほうが、本当は合っているのかな?とか思ったり、思わなかったり。
そう、こんなふうにあれこれおしゃべりが止まらないのは、今、自分が何になりたいか、どう生きたいのか、というのが曖昧で、かといって迷子であるわけではなくて、ある程度、興味のある分野やできること/できないことは絞られているから、フラフラはしていないのだけど、その興味のある分野でもって、どのくらいの高みにまでいきたいのか、(高みを目指すことが自然に浮かぶの、変なのかもしれない。)というのが漠然としているのだ。
抽象的に、なんかすごい人にはなりたいんだよ。でもそのすごい人になるために、どのくらいのリスクは背負っても良くて、どのくらいの苦汁を啜ったっていいのかという覚悟の問題が、曖昧である。
(というか、本当にすごい人というのは、リスクをリスクと気付かぬうちにしれっと乗り越えられちゃってるような人だから、躊躇しちゃってる時点で私はそこまでなんだよなぁ…)
とりあえず現状を整理すると、絵は、自分にとってひとつ特技としてあって、その上で今、本を読むのにすごくハマっていて、特に小説が熱くて、数日前から遠藤周作さんの「深い河」を読み進めているのだけど、もうめっちゃ面白くて、面白いというか、新しい知性や感性、感覚の扉を開いている。開眼しているのだ。メキメキと、自分の中に今までなかったけど、欲していたような、欲、知識欲なのかな、思考が一段階クリアになって、急激に満たされていく感じ。
猛スピードで読んでいたからもうすぐ読み終わってしまうのだけど、この快感をもっと味わいたくて、また図書館で10冊くらい本を借りてきて、バーっと回し読んでいる。内訳はいつも、小説が2、3冊と、エッセイが2、3冊と、図鑑とかレシピ本、ハウツー本のようなビジュアルで楽しめるような本を数冊、という感じで、ここ最近の読書事情を書くと、常に30冊くらいの本を手元に、というか意識下に置いて、気になった順に好きなだけ読む感じで、きっちり読破する本は多分月に5、6冊くらいなんだけど、面白い本、自分が求めてる本に出会うために手当たり次第にざっとページをめくった本が、その読破した1冊に対して10倍くらいの量がある感じ。
そうやって何十冊も意識下に置いて、色々な気づきを結びつけて、さらに新しい刺激を求めて、その気づきの結びつきのネットワーク(宇宙)を成長拡大させてみたいという好奇心のままに手当たり次第本を読み漁る、その行為が自分にとって何になるのか、なんの役に立つのかはわからないし、その知識欲が満たされる感じ、物事をみたり触れたりする感覚がクリアになっていく感じが、ただの娯楽的な位置付けでしかなかったとしても、とりあえずこういう本という世界、文字で魅せるような世界の住民に私もなりたい!(しかもこの世界めっちゃ栄えているのだ!人口も多ければ歴史も深い上に、現実社会においてちゃんと重要な位置付けをされている安泰の世界なのだ)という気持ちは揺るぎなくあって、且つその世界でただ享受者として生きるだけでなく、生産者、言葉の使い手でもありたいと憧れる気持ち、それは小説家になりたいとか、エッセイストになりたいとか、出版社で働きたいとか本屋さんになりたいとか、そういう具体的なものでは全くなくて、私も文字というものを使いこなしてみたいという好奇心。
とりあえず思いつくままにここまで書いて、結構な時間が経過してしまった。いよいよ空腹で頭痛までしてきたので一旦ここまでとする。
それから、やっぱりまた図書館に行って、閉館まで本を読んだ。
ほとんど、読書中毒。面白い本に出会えるように足を動かしてないと、勿体無いような気がする日々。
絵も描いたっていいけど、この読書熱で私はどこまで行くのか、試したい気持ち。
やりたいこと、思いついたことに自然と身を任せる。今日までも結局そうやってきてるんだよなぁ。
図書館を出て帰路へ
今日は彼氏の帰りが遅くなるみたいで、だからこのまま真っ直ぐ家に帰ってしまっても多分寂しいというか、長い夜になりそうなので、どこかで時間を潰して帰ろうと思った。
お財布のことを考えるなら、スーパーに寄って野菜と肉を買って自炊するのがいいかなと思ったけど、多分今日の私はそうすると「なんで私はこんなに頑張っているのだろう。誰か認めろ!私は偉いだろう!褒めろ!労われ!評価されたい!(もちろん素晴らしいね、とね)」と、多分これが孤独というやつ、寂しくて、張り合いがなくて、ひとりで悔しくなって泣くような予感がしたから、足の赴くままに進んだら、いつもの珈琲館の前まで来たので、ここで一休みすることにした。
土曜日の夕方で、きっと友達がいたり家族がいたり、お金に余裕があるような人々はディナーに出かけているのだろう。珈琲館の店内は空いていて、単身で何か作業をするような人々がひっそりといるだけで、すでに心地いい感じ。
私はピザトースト(580円)とレモンスカッシュ(600円)を頼んだ。喉が渇いていた。
この前ユニクロで買った(ちょうど気温がグッと下がった劇的な季節の変わり目という日に、バイト先に薄着で来てしまって、寒さに耐えられず、臨時で休憩をいただいて近くのユニクロに走って緊急で買ったのだ)白いトレーナーを着ていたのだけど、そのトレーナーが絶妙に暖かくて、これがいい感じに暑すぎはしないのだけど、ちょうど眠たくなるような暖かさで(実は図書館でも最後の方は欠伸ばかりしていた)それで喉も乾いていたし、なんだふわふわしていた。多分それは寝起きに空腹を我慢して文章を書いて、結局レンチン納豆生卵うどんを啜って、間髪入れずに図書館で2時間弱本を読んだ、なんというか、疲労。脳の疲れがあったのだと思う。
遠慮なく、どっかりとソファーにもたれかかって、ややぐったりと、カウンターの向こう側に見えるキッチンを眺めた。
よく手入れされた、銀色の調理器具たち。壁もきちんと磨かれている。誰かが頼んだであろうパスタを、ぐつぐつと茹でる大きな鍋から昇る湯気。茹で上がったパスタが熱されたフライパンに移って、ジュージューと蒸気を上げながら食材たちと絡んで乾いていく音。ソースのいい香り。
自分のためにご馳走を用意してくれる人がいて、それを無防備に待てる。その時間の、幸福さよ…。あー、これだ。私が求めていたものがここにある。労い。思いやり。これが私の欲していた愛。お金を介した関係だとしても、見えた。あのキッチンの向こうに、母親という概念が。
ほとんど放心状態で店内の家具を意味もなく眺めたり、時計の針を眺めたり、外の様子を眺めたりした。お店の出入り口の扉は開け放たれていて、それが私にとっては好印象だった。闇に沈んでいく街が見えた。車のヘッドライト、自転車のライトがチラチラと夜を照らした。人の往来、子どもの姿。
扉を開け放つセンス、ほんと好きだなぁ…気が合う。私はエアコンがあまり好きではないから。できる限り自然の温度に任せたいよね。
つづく