2024年9月29日
福岡から帰ってきたら、彼氏の様子が変わった。
本格的にダイエットを始めた。食事の記録をつけて、摂取カロリーを数字で確認し、調整している。
8月の、あの布団が巣の、生気のない軟体生物(もしくは重力への抵抗を最も軽減させるために背中を地につけ生活することに心を決めた新人類)だった彼氏から一変して、そう、カラッと表情が変わった、何やら前向きに生活している模様。
一方、私はというと
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メモ的日記:9月27日(金)くもり雨
たねの図鑑
高校生と考える、シリーズ
上橋菜穂子さん「物語ること、生きること」(精霊の守り人の方!どうしたらこんなに素敵な物語が書けるのか、という読者の問いについに答える形となった、自伝的エッセイ。)
12時半ごろに起きて、机に向かう。
コーヒーを切らしていたので、紅茶を飲みながら、先日往来堂書店さんで購入した本を眺める。
眺めるというのは、集中して読めるほど頭が冴えていない。
天気のせいだろうか。音楽など流しながら、ぼんやりと過ごす。
生卵と納豆を混ぜたレンチンうどんを啜ったら、曇天の下、国際子ども図書館へ向かう。
中高生向けの選書の部屋の素晴らしさ。早速夢中でページを捲る。
まずは種子の図鑑。形、色、美しいたねたちにうっとり。
それから、高校生と考える〇〇というシリーズ。様々な分野の、それぞれ第一線で活躍されている方々の、おそらく中高生に向けたある講演のまとめ。中高で大して本など読まず、世俗に紛れて惰性的に勉強をこなし、画面越しの娯楽に時間を溶かしいたずらに歳を重ねてしまった私のような大人にも鮮烈に刺さる内容。
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2024年9月29日
やらなきゃいけないことがなくなった。
やらなきゃいけないことはたくさんあるのに、(それはほとんど自分で自分に課した呪いのような物事でしか無かったのだが)何にもやる気が起きなくて、だるくて、寝ている、という状態でなく、何もやることがなくて、自由だから、ぼんやりしている、最近の自分。
本は読んでる。よく図書館にいく。もしかしたら、休みの日は毎回図書館に行っている。
さくらももこさんのエッセイにハマった。
吉本バナナさんのキッチンを一気に読みあげた。(物凄く良かった。これまでの人生で何度か読もうと思ったタイミングがあったにもかかわらず、有名であることがなんとなく気に障って読まず嫌いしていた自分を恨んだ。)
今はトーベ・ヤンソンさんの「ムーミンパパ海へいく」を読んでいる。(追記:サイコーだった…夢中になって、没頭してこれもすぐ読みきってしまった。虜になって、すぐにもう一冊、彗星のお話も買って読んだ。そしたら物語中毒になり、没頭できる物語を欲して、子どもの頃ぶりに「獣の奏者」を手にして、ほぼ二徹で2巻まで読みきった。)
島田潤一郎さんの「あしたから出版社」はやっぱり面白かった。彼の綴る言葉に触れると自然と本が読みたくなる。名作と呼ばれるものをもっと読んでみたいという思いで、図書館や本屋さんをうろうろとして、ムーミンシリーズはそんな自分の懐に元に舞い込むように、往来堂書店さんの店頭にあったのだった。
幼少期または学生時代に良質な読書経験があるような人が羨ましい。雑誌を開いて目に飛び込む、有名作家や役者さんの自分を形成した読書体験などという記事を読んで指を咥える自分。
別に小説家になりたいとか、エッセイストになりたいとか、そういう夢は全くないのだけど、自己表現の武器が言葉である人々が羨ましい。
私の武器は、絵と、人と違った19〜23歳くらいまでの生活の経験。受験を挫折したこと、長年の精神的な問題、精神的な不調に伴う肉体の不調との戦いの日々、母の看取り、上京。
この夏で、上京して丸2年が経った。3年目が始まった。今の自分のことは、あまり特別だと思わない。私は、変だった。家を飛び出すようにして、彼氏だけを頼りに東京で生活する女。私は変で、普通じゃない。普通になりたくて涙が出た。去年までは。変な生活も、3年目になったら普通の生活になった。変なのが普通なのだ。だからか、この状況から脱しなければという変な焦りがなくなって、よく眠るようになった。よく眠って、のんびり過ごすようになった。
よく眠り、穏やかに日々を過ごせるようになったのは、将来の目処が立ったからかもしれない。
彼氏のご実家に赴き、ご両親がとてもあたたかく、自然に、私たちを受け入れてくださったこと。彼氏が、私を連れて地元に戻って仕事をするビジョンをはっきりと持って勉学に励むようになったこと。
彼の心が決まったことで、私は、あとは彼についていくだけとなった。それについて、あまりどうとは思わない。私は少し疲れているような気がする。個展で、今持てるものは全て出し切った感覚がある。そうしたら、何者かになろうという気持ちが薄れた。諦めがついた、ということなのだろうか。少し違う気がする。私が私であることを、真に受け入れられている。背伸びしていない。浮き足立っていない。力が適当に頭の先から手足の先まで行き渡って、満ちている感じがする。
本当は、今日はあまり文章を書くことに乗り気ではない。ただ、物凄い早さでここまで書いたのは事実としてある。
書きたいこと、書いて消化したい思い、書いて残したい経験は、山のようにあるが、誰かにも気持ちよく読んでもらえるような形で残そうという配慮までできない気持ちである。
文章の構成、言葉遣い、何もかも気にすることなく、つらつらとここまで書き上げた。そんな文章に意味はあるのだろうか。多分、何事にも意味がないものなんてないのだろうけど、これまでの自分が、ごく自然と読み手を意識して、より正確に自分の心をうつそうと、心掛けていたあの真剣さ、地道さ、集中力が信じられない。物凄く体力があったような気がする、あの頃は、といっても少し前のことだが、ずいぶん時間が経ったような感覚がする。とにかく、楽しかった。文章を書くのが。書いて、誰かに読んでもらいたいと思っていた。誰かに読んでもらって、繋がりたいと思っていた。
…誰とも繋がらなくていいような気がしてきた。
からなのだろうか。
彼は私のことを本当によく理解しているし、理解した上で愛してくれている。
きっと彼以上に私を理解してくれる人など今後の人生で現れないだろう。
もし彼の代わりを求めるのなら長い年月をかけてお互いを理解する必要があり、この先長い年月をかけて付き合っていくような人間がどれだけいるか…